2011年10月21日

【参考】士農工商は、平民を印象づけるための明治政府の用いた対比用語だった

1-3)改稿.2015/08/19...20111021...

> 江戸当時、士農工商の序列がどのように認知されていたかはもはや謎である


 政権批判の類いにおいても、それが
 将軍に向けられたものなのか、地元の殿様に向けられたものなのか‥
 日常の心情においても、一極集中に無かったのだから、まとまりなどまず無かった‥
 (一極集中に無かった点に、ここでの論の切り口がある)


 ‥そもそもにしてゴミ一つ落ちていない社会性と、ゴミ落ち放題の社会性との民度を比べようがない。
 江戸時代に情報に娯楽が少なかったからとは言え、この違いをそのままに比べる事はできない。
 庶民の間には、公家と士と坊主と民衆ぐらいの違いにしか認知されていなかったように思われる。

 その理由として、日本昔話のような民話が挙げられよう。

 日本には数々の民話を言い伝える文化がある。
 それほどに、身分差の誇張があったなら、其を基点とした悪政があったなら、
 もっと多くの形で伝承され、表面化していたとしてもおかしくない。

 そこで、江戸時代の身分制度が如何様なものであったかを改めて考察してみた。



1-3)1

1582年(天正09年)太閤検地(総称)始まる。企画発案は石田三成。
1587年(天正15年)禁教令(バテレン追放令)を発令。
1588年(天正16年)刀狩により兵農分離。武士と百姓の間に身分の固定化がされる。
1592年(文禄元年)文禄の役、宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵。
1596年(文禄05年)明と講和交渉が決裂、再出兵の号令を発する。
1597年(慶長02年)慶長の役、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮に再出兵。
_________豊臣秀吉が下級武士に五人組・庶民に十人組を組織させる。
_________小早川隆景死去。
1598年(慶長03年)豊臣秀吉死去。
1599年(慶長04年)前田利家死去。

1600年(慶長05年)関ヶ原の戦い
1603年(慶長08年)徳川家康が征夷大将軍に任命される。
_________江戸幕府による天下普請始まる。
_________秀吉に習い、京都に十人組を組織させる。のちに五人組へと制度化。
(※五人組が全国規模で実施されたのは17世紀中頃から‥各藩まちまちのスタートの様子。)
(幕府が上から指示する強制には到っていなかったと思われる。)
(‥年貢を納めさせる上での効率を考えた場合、各藩共々にお互いの政を参照した結果、)
(横並びになったと思われる。加賀藩では十村制が引かれていた。)

_________宇喜多秀家、家康のもとに身柄を引き渡される。その後八丈島へ配流。
1605年(慶長10年)二代将軍に徳川秀忠就任。

1608年(慶長13年)家康が豊臣家に方広寺大仏殿の再建を勧める。
1609年(慶長14年)大船建造の禁。安宅船(500石積以上の軍船)保有禁止。江戸中期に規制を撤回。
1612年(慶長17年)キリシタン禁令。寺請制度を創設。
1613年(慶長18年)イギリス東インド会社が日本の平戸に商館を設置。

1614年(慶長19年)大坂冬の陣 。
1615年(慶長20年)大坂夏の陣。
_________武家諸法度を発布。
_________中並公家諸法度を公布。
1616年(元和02年)徳川家康死去。

1619年(元和05年)キリシタン禁令。
_________菱垣廻船(ひがきかいせん)堺 - 江戸を回航。
1623年(元和09年)三代将軍に徳川家光就任。
_________上杉景勝死去。
1629年(寛永06年)絵踏を導入。次第に形式化、1856年(安政3年)開港地で踏み絵廃止。
1634年(寛永11年)出島、長崎に築造。
1635年(寛永12年)参勤交代を外様大名に義務付け。
1637年(寛永14年)島原の乱勃発。- 1638年(寛永15年2月28日)終結。
1641年(寛永18年)平戸からオランダ東インド会社の商館が出島に移設。以降1859年まで。
1642年(寛永19年)参勤交代を譜代大名にも義務付け。
1643年(寛永20年)南光坊天海僧正死去。
1649年(慶安02年)慶安御触書、農民統制の由で発令。

1716年(享保元年)徳川吉宗、江戸幕府第8代将軍就任。
享保の改革 1716年から1745年。関東八州幕府直轄地、四公六民から税を引き上げ。
(※旧北条領地の年貢が四公六民だった‥是を家康は配慮し承諾。享保の改革まで維持された様子。)




1-3)2

> 上に挙げた年表を眺めてみると


 士農工商などという意図はどこにもうかがえない。
 むしろ、キリシタンを取り締まるための策と、藩の謀反を取り締まるための狙いの方が大きい。

 年貢の不正不満を減らすために行ったのが検知。
 余計な争い事を減らすために行ったのが刀狩り。
 (それの政策の多くは秀吉の時代。しかも、民衆に人気だった石田三成に任されたと言われる)
 (その三成の居城には、贅沢の欠片も無かったと伝わる)

 家康は、豊臣家打倒の為に海外貿易を利用している点と、藩の統制を強化している点で異なっている。
 (家康は、旗揚げ時に地元の一揆に面食らって以来、百姓を無下に扱う性格にない)
 (それでなくとも死んでいった配下の者たちへの供養を欠かさなかった)
 (‥そこに天下人としての甲斐性がなかったなら江戸の世は無いのだ)


> 事の問題は、兵農分離にある


 ‥天下が秀吉の手に治まって以来
 武士は武勲を得る機会を欠いていた。そこに秀吉の悩みの種があった。
 武家からの支持の厚い家康とは違い、秀吉にとって兵の運用は背に腹はかえられない事情にあった。
 そんな秀吉にとって見れば、自分になびかない多くの家臣はただの駒だった。
 若りし頃とは違い、仲間と呼べる範囲が異なっていた。
 死なせない戦などどうでも良くなっていた。朝鮮出兵を思うにそう思わざるを得ない。
 (贅沢と権力の保持欲が、秀吉の根っこを腐らせたのだろう)

 ‥少なくとも、兵農分離しているのだから死ぬのは武士ばかりになる。

 幕藩体制の方がまだかわいい政策に映ろうか。
 兎も角、士と百姓の生業が完全に分離した。戦国時代に起きた身分上の大きな変化だ。


> 時代も下ると、活躍したのは商人だった


 でも、商人には自らを主張する上で、特に保証された権利はない。
 権利を得たいなら、役人と直接交渉するのみだ。それは百姓も同じだった。
 ‥強いて述べるなら
 下からの咎めは武士の恥だったことから、目安箱に関心を示す大名が減っていたという傾向だ。
 戦国時代の大名を見ても分かるが、目安箱を蹴り飛ばしていては成長できないのは一目瞭然である。
 だから、遠ざける傾向にあったにせよ、理解がまったくなかったとは思えない。

 そもそもの発端は、兵農分離にある。

 百姓の苦労を間近にしないならそうならざるを得ない。
 まして、頂く物を頂く事しか頭になくなれば、それはますますエスカレートするだろう。
 ‥それにしたって、全国均等にエスカレートするほどにはなかったのだろう。
 (全国的に民度が落ちないとは、そういうものだ)

 敢えて言うなら、商人が図に乗っていればまた違ったかも知れない。
 それにしたって、権利なんぞ、ご機嫌次第で剥奪されちまうんだから迂闊な事はできないのだ。
 ‥大名にしたってそこは同じだった。


> 変異があったとすれば


 ‥外国から入ってきた拷問装置の数々になるだろう。
 一部の役人が、それに刺激を受けて無駄に試してみたくなった。
 その手の連中が、根腐れを起こして冤罪を増殖させていた点は否めない。

 (それの影響を強く受けていた藩はどこか?仲介していたのはどこか?)
 (キリシタン取り締まりに積極的だった藩ほど怪しいと言う事になる)


> 飢饉を通して幕府は成長した。


 飢饉の被害は自分たちにも及ぶ。年貢が入らなくなるのだから当然だ。
 ‥被災した藩の窮状を救わない。そんな幕府だったなら、諸藩からの求心力は得られない。

 ‥そこに、米国の歴史見られるような徹底した身分差別があったとしたらどうだろう。
 早々簡単に、方針が変わるものではない。
 小田原藩からの対応を見ても分かるように、そこに厳格な意味での身分差などなかった。

 しかし、将軍家から見ればそうだったかもしれないが、
 諸藩の地元においてまでそうだったかは推し量れない。



1-3)3

> というわけで、考えられることはただ一つ。


 明治政府の中核となった長州薩摩の風土の中に、士農工商に近しき身分意識があったのだろう。
 そうでもなければ、明治政府がわざわざ「平民」なんて言葉で持ち上げるわけがない。
 (‥諸事情から、公家や大名家を区別した。「華族」の言葉を登場させている)

 しかしそれらは

 武士階級を無くする意味にあった。
 又同時に、国民の誰をも徴兵の対象とする武士化でもあった。
 ‥兵農分離の終焉を意味した。


> 明治政府が意図した狙いとして


 「平民」の表現の裏には、天皇制を担ぎ上げる意味を含んでいた。
 天皇・皇族を玉座に据えて‥以下その他は、平民と言わんばかりにしたのだ。


 それにしたとて


 当時の庶民にしてみれば、いきなり平民と言われてみてもピンと来なかったろう。
 もとから庶民でしかないのだから、庶民を平民に置き換えてもなんの意味もない。

 ‥明治政府としても
 今までの士は古くさいやり方だったので、これからは平民に改めますなどとも言えないのだ。
 少しでも自分たちの名誉を織り込みたかったとしか言いようがない。

 だから、そこにあるギャップを埋めるための表現として

 「士農工商では平等とは行きません。
  これからは進んだ西洋のやり方を取り入れて、是を平民と改め、庶民の間に身分差は無いとします」
 ‥という霞ヶ関文法のようなやり方を推し進めたと思われる。


> さらにそれが教育の段階になって


 幕府打破=明治政府=文明開化=明るい未来=正当
 なんて思い込みが、士農工商の表現を如何にもそうだったかのようにすり替わることになり、
 いつの間にやら、江戸時代を通じてさも有ったかのように、身分差表現の言葉に定着したと思われる。

 それが却って、江戸時代は劣っていたものだったという認識として国民の間に植え付き、
 ますます富国強兵は必然とされ、近代化に邁進して行く上での原動力になった。
 (実際は、ユダ金への支払いの都合だった)


> ‥また、そのような意図からすれば「鎖国」の表現も近しき類いになろうか。


 開国してみたら、意外と日本は列強に劣らない国家だった。
 ‥江戸時代なんぞカビの生えた体制に過ぎなかったのだと。

 誰がそう思う事で原動力なるかといえば、もはや軍人だった。

 その軍人とは、国民からの選りすぐりのエリート連中だ。
 そいつらの確信ともなれば、民衆は従わざるを得まい。そんな空気で蔓延していた。

 ‥江戸時代の攘夷とは、まったく異なる異様さがそこに生じていた。
 (ユダ金が絡むとそういう風にしかならない、不思議なものだ)
posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:00 | Comment(0) | 歴史 | 更新情報をチェックする
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