2011年12月28日

株式とオーナー権の関係を革命すると、法人税の概念にまで連動する。

1-5)0
 資本主義の株式会社と民主主義の株式会社は意味する所が明らかに異なる。

 しかし、バリバリの利益追求の投資家は、どちらも同じ目線で見ている。資本の運用に資本主義も民主主義もないと言わんばかりに。
 それでも、どちらにしても成長すればするほどに、公共機能としての責任がのしかかるのだから、その手の投資家の言い分がどこまでも通用するというものではない。この点は明らかである。

 何が言いたいかというと、市場の自由性だけに基づいた株式市場には、公共性としての重要度の変化が織り込まれておらず、分かりづらいのが問題だという見方だ。

 そもそも公共性の重要度は、地域生活との密着度に比例するのが通常なのだから、投資家目線の合理化姿勢とは相容れない性格を有している。
 そしてその地域の歴史やゆかりのことなど一切関係なく、産業として活性化すればいいと思いがちなのが投資家のマネーに対する見方である。
 その言い分を言い通しているのが、株式市場のよくわからない市場からの資金調達という仕組みである。みんなから集まったのだから実行すべきだと言わんばかりに。

 それから、株式市場独特の人気が強いからこれから大きくなるとの印象は得られても、実際は、全体の景気に左右されるとの目論見の方が大きいのだから、そのような市場とは一体何なのかという疑問はぬぐえない。

 このような不可解な構造をどうにかしない限り、株式という考え方に未来はないと思う。


1-5)1
 資本を出したからボス。まぁそれはそれで良いと思う。
 しかし、働いている側からすれば、村の住民は、入れ替えればいくらでもボスの言い分のまかり通る村として機能するかと言えば、決してそうではない。長続きしなければ、ボスの立場もあったものではないからだ。
 そういう意味で言えば、資本を出したからボスというのなら、まずは村としてのあるべきビジョンを示すべきだろう。そしてそういうビジョンを示してきたのはいつだって、起業した創業者もしくは創業当時のメンバーたちの精神なのだ。

 資本を出したからボスの心理とは、常に市場を牛耳ることばかりを念頭に置いたヤグザなモノの見方だ。だからいつだって大損する前に逃げるための手立てを用意している。
 株式の問題点は、{大損する前に逃げだすための手段としての言い分を正当化した手法}
={資産価値で会社を売買できる}点であり、株式の持ち分率でその売買権を主張できるという点に尽きる。

> これでは公共性の重要度など織り込めるはずがない。

 だから、半分は逃げられないルールにしておく必要がある。



1-5)2
 例えば、資本金というものがあるが、それが何を意味するのかはまったくもって不明である。
 資本金を必要とする性格として考えられることは、さしずめ「担保なのかな‥」と思うわけだが、担保にしてはその扱いとしてはバラツキがあるように思えるし、資本金をいくら積んでいようと株式の査定価値には影響がないのが日常のニュース内容からでもわかる。
 かといって{資本金}≠{株式} {株式}={資産価値}なのだからわけがわからない。

> そこで新たに、{内部留保}={資本金}={経営権株式の出資額}という考え方をここでは導入する。

 そうすると、会社側は自分たちの経営権の防衛として、内部留保の分の経営主張を持つべきだという考え方が生ずることになる。
 そうすることで、経営権における出資率の割合をお互いの間で調整するのだ。
 会社側の言い分に不利が生じないようにしておきたいならば、どうしたって一定の%を保ちたいと考えるだろう。そうであれば、純利益の増加もないのに、新たな経営権株式の発行をしようと思えば、どうしたって持ち分率を下げざるを得ない。それは投資家の言い分を受け入れるという形となる。
 投資家にしても、従来の株式とは異なり、大きな資金を用意せずとも良い反面、自分の持ち分をすぐには売却できないだけでなく、どんなに引き受けて買い増してみたところで、会社側の経営主張=持ち分までを自由にできる立場にはないことになる。
 売れるとすれば、自身のオーナー権としての持ち株数だけだ。そして新たに請け負った新オーナーにしても、会社側の主張権を侵害できるものではない。

※ただし、このようなルールに変更するには、それとはまた別の経営権には絡まない新たな資金調達のためだけのシステムが求められることになる。

 ちなみに、この場合のオーナーとしての権利は、従来意味した配当を得ることではない。役員として売り上げに貢献して、堂々と給与を得ることだ。
 だからその会社の役員になるために、経営権を買うといった仕組みになる。

> こうすると、確かな資産形成能力のある市民が、経営のトップに立てる構図が思い描けることになる。
> 自分に直接その才がなくとも、受け継いだ資産等で、有能な人材を送り込めば良いだろう。

 言うまでもなく、役員になったはいいが、経営拡大できませんでしたとなれば、自分の持ち分を売って去るか、会社側と一体となって外部から新たに資本金の増分を求めて経営に参画してもらう形となる。
 しかし、売り上げの規模も伸びていないのに、成果を出していない前役員が撤退しないままでいては、どのみち筋は通らない。だからその時は、自分の持ち分を会社側に組み入れてから居座るぐらいの覚悟が求められることになるわけだ。
 その場合は、もちろん降格もあるだろうし、クビも左遷も起こりうるだろう。新しくやって来た役員がやり手で成果を見せれば、そういうことも十分に考えられるのである。

 そして肝心な事は、不渡りを出したりした場合の補償金としての役割を担うという側面だ。中身は内部留保なのだから、未払いの支払い分を受け取るべき側からしてみれば当然の言い分となる。



1-5)3
 これを財閥のような内部構造で見た場合、参画した各企業は、自社から必ず出向役員を出す形をとらざるを得ない。
 株式交換のような形式とほぼ同列の関係と言っていいと思う。お任せというわけにはならないのだ。

 ただし、売り上げのすべてを一緒にまとめるだけでは、出資率は一番多いけど、今年は赤字を出しましたなんて時、出資率だけで取り分が決まっていたりすると頑張り甲斐が薄くなる。
 だから、あくまで経営権の主張配分だけを担わせるべきだと思う。

 とりあえず、このような形式であれば、{内部留保}={資本金}={経営権株式の出資額}の拡大がそのままに企業そのものの資産価値としてはっきりとし、その膨れあがった資本金を切り崩して縮小する場合には、外部役員もしくはその派遣元にとっても、身銭を切らざるを得ない形式になるという具合だ。

> まぁこのようなルールに変更した場合、内部留保が多い方が良いかどうかを、どう考えるかは別の話。



1-5)4
 で、肝心の市場からの調達に対しての機能はどうなるのかというと、当方では銀行改め「金慮」から発行権を基に一元化して借りてくると言う考え方なので、何も問題はない。

 その手の資金を国民に引き受けてもらって、減税要素として配当利益相当分を還付できるような仕組みにすればいい。これを説明し出すととても長くなるのでまたの機会とする。
 まぁ、国民もしくは地域住民に引き受けてもらうのであれば、その返済期間中は、どうしたって市民の発言権も付け足さなければなるまい。

 早い話、行政=金慮が貸し付けて行われた政策が、貸し手が市民になることで、市民主導に切り替わるのである。まさに民主主義。地域一体化へのステップだ。
 ただし、金慮もしくは市民への返済が終われば、企業の持つ経営権に対する考えの基準がなくなってしまうことになる。ここが重要だ。じゃ、どうしたらいい‥そこで今説明しているような経営権株式の概念とはまた異なる視点が生ずるのである。ここもまたの機会とする。


 それとまた、行政=金慮の構造ともなれば、行政への納税が、どうしたって金慮から借りた分の高金利の利払いに思えてくるだろう。それはそれで仕方がない。
 どちらにしても、金慮から借りた分は無利子なのだからキチンと返済できれば、税金は税金でしかない。

 とはいうものの、イメージが悪すぎる。それと、金慮から借りる場合の規律が求められる点を忘れてはならない。
 企業は何も一つの地域にまとまっているわけではない。いろんな場所に事業所を構える。そうなれば、いろんな地域の金慮からお金を借りることになるのは必然である。
 その時、どの地域でも返済率が同じとか、どの地域でも税率が同じでは地域自治としての主体性が伴っているとは言えないのである。

 だから、借りる案件の度に、もしくは、年度返済の割合と言うのを、企業ごと借り手の事業所ごとに異ならざるを得ない摩訶不思議な事態が起こることになる。
 つまり、税率にしても、純利益とのバランスを個別に対応していかなければならないという必要が生ずるのである。純利益が少ないのに法人税だからというだけで、一律の税率なんて有り得ないというわけだ。
 法の示す税率に従ってさえいればよかっただけの公務員にしてみれば、まさに青天の霹靂になるだろう。銀行員なら当然の理解なのにね。

> こうなるともはや、現行の法人税に対する常識はまったくもって白紙となる。
> 失礼ながら当方は、税をせっせと納めさせるようなノウハウに興味はないので、その辺のうんちくに関してはパスする。
> ただし、国民に引き受けてもらって減税要素として配当利益相当分を還付せしめるの中身については述べておかねばならない。それもまたの機会としておこう。



1-5)5
 お気づきかもしれないが、金慮から借りる場合にも、今述べた革命的経営権株式のルールが適応される。金慮側が多く持てば社会主義っぽいし、少なく維持するのであれば資本主義っぽく思われるだろう。
 この辺りは起業者の性格と戦略が反映する部分である。
 地域と一体化するつもりなら、何も戸惑うことなく社会主義っぽく行けばいい。
 全国規模・世界規模を狙っているのなら資本主義っぽく行けばいい。

 そしてこの場合の金慮側の経営権として受け持つことになる経営権株式は、実際には用意されることのない仮想的な金額同然になるのだから、それなりに社会保障的な機能性を担わせるべきである。
 つまり、該当する企業が不渡り等で倒産の危機となった場合、会社側や投資家の持ち分は未払い分の支払い等に回されるとしても、金慮側の持ち分は社員への一時的な給与分として扱うという形にしておくとの考えが浮かぶだろう。
 そう考えないとベーシックインカムとの内訳の調整が図れないのだ。

 すると、社員としては金慮側の言い分が大きくても構わないとの考えの派と、利益配分を上げてもらって自らも資金を貯めて経営に参加したいとの考えの派の両方が生ずることになる。
 でもまぁ、その手の支払いに資本金のすべてが回ったとなれば、金慮としてもその会社の経営権はまったくの白紙という状態を意味するのだから、どうしたって行政としても潰れてもいいというわけには行かなくなる。

 その時悩ましい問題として起こるのが、あちこちの地域の金慮から資金調達をしていた場合である。
 それでなくとも、あちこちの地域の金慮から資金調達をするという形式は、どうしたって経営者としては悩ましい事態に映る。それはそうだろう、場合によっては課税の多重性を意味しかねないのだから。ここはどうしたって、国から一元化して借りられるという形式にしてもらいたい所となる。
 つまり、従来と重ねて考えても、中小企業のうちは社会主義っぽい作戦で地域の金慮から、大企業に成長したら一気に国の金慮から資金を調達するような感覚が望ましいわけだ。

 そこで、問題となるのが、せっかく地元密着のつもりで成長させてあげたのに、大きくなったらその税財源が国の取り分に移るともなれば、地域の金慮としても貸し方を考えないと丸損という中身のもたらす顛末だ。
 当然ながら、市民感情としても地域色の強い方が良いわけである。
 ただし、鉄鋼業のような大規模の産業形態はどう見たって国の取り分にあたると思う。

 というわけで、その辺の兼ね合いの調整をうまくやらないと地域と国とで喧嘩にしかならない。
 だから、そこでようやく道州制という論点が生ずるんだと思う。


> これは、GDP規模とか、人口の割合だとか、そういう投資家に見栄えのいいような道州制だとうまく行かないという示唆なんだと思う。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:10 | Comment(0) | 金慮 | 更新情報をチェックする
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