2012年01月08日

道州制に対して、統治権・政府権・統帥権はどうあるべきか?

1-3)0
 道州制に対する考えは人それぞれで細かく違うと思うが、そもそもにして、国に一極化し任せておいた権限を、二重行政にならないように、その多くを道州側に譲る方向に違いはないと思う。

 しかし、そうなればなったで、政治への関心は中央から道州に移ることになる。それで国政選挙を従来通りに中央政党誘導で推し進められるのかと問えば、「?」が点くだろう。

> どの辺が疑問なのかと述べれば、それが今回のお題である。


1-3)1
 道州制に到った結果、選挙戦の変化として考えられることは、戦国時代さながらに、地域の有力議員が地域地盤を固めた政党を形成し、順次、国に上ってくる‥そういう傾向が考えられる。
 そして、そうなればなったで、明治初期さながらの薩摩と長州の主立った面々が顔を利かせたような政治体制が予想されるのだ。

 当然として、特定の地域の実力者を中心とした派閥形成は、中央の政党というイメージではない。その時代時代の有力な地域政党のいくつかが幅を利かせることは、悪いことではないにしろ、どうしたって独裁色が滲み出すだろう。
 その問題点として挙がるのは、どうしたって、その独裁色に毒された面々が、その時点での理想を実現させようとやっきになって、委譲した権利を中央主導に戻す戻さないの乱戦に突入しかねないという要素だ。

> まぁそれはそれでいいだろう。問題なのは、そうなると中央には地域という基盤がないのだから、理想だけで中央から政党を旗揚げするという説得力に薄くなると言う要素がどうしても大きくなる。

 実力も実績も無い者がとりあえずしてきた政治家への道順としてあったのが、中央の政党に属し、その下積みで全国のネットワークに関わり、人物と人物とのその出会いも、国の将来のためという意識が培われていたという流れである。
 それが道州制という流れと共に、地域地場の将来のためというステップから、国の将来のためという道順に変わるのだ。

> そこに求められるべき意識の切り替えが、現行制度のままでは不可解というのである。

 いつまでも地域政党に属していたままではやりづらいだろうし、地域政党に属したままでは当然として地元に有利な政策を主張してしまいがちだろう。それでどうして国政としての意見を論じられるというのだろうか?
 地域の意見は道州制の役割の中に機能付けさせているのであれば、国政にまでその勢いを持ち込んでしまうような党勢の流れはおかしいのである。

 やはり、国は国としての地域政党からの延長ではなく、あくまで国VS地域という視点からの意見交換を推し進められるような人事が起こるようでなくてはおかしい。

> その辺りの意見は聞いたためしがないのだから、従来通りのやり方で押し通す頭でしかないのであれば、それは本来的な意味での道州制にはなるまい。名ばかり道州制にしかなりえないのだ。



1-3)2
 そこでこんな考えが起こる‥

 国家の立法、行政、司法のそれぞれを評議会制度にし、推薦を受けた有識者が集まって、国としてあるべき方針を示すように話し合うのだ。
 その話し合いは、道州からしてみれば参考意見にしかならないだろうが、そこからはみ出しすぎれば、地域市民とて問い合うことになるだろう。なにしろ、時の有識者達が集っての意見をないがしろにはできないのだから。

 さて、そこで立法である。最終的な法案の成立までを参考意見というのではあまりにも怪しすぎる。それでは統治権の行方があやふやになりかねない。
 されど、中央からの政党旗揚げには足場としての決め手がない。
 そこで、評議会に参加する権利を得た有識者からの推薦なり当人たちが政党を掲げて、立候補を立てるとしてルール化するのだ。

 さすれば、中央の意見は国際的な事情の絡んだ意見となるだろうし、道州の意見は地域地場に則った意見として強調されることになるだろう。
 中央の政党として足場を造ろうと思ったら、そうするより他にないと思う。
 そもそもにしてこれと似た形が国連なのだから。

 ただし、国連に政党制度はなく、常任理事国という意図不明な民主主義らしからぬ絶対的な権力基盤を維持させている点はくどいとしか言いようがない。
 そこを政党制にして考えの主流がどこにあるのかを、はっきりさせようというのが今回の意見である。



1-3)3
 それでも疑問点は残る。
 有識者の選び方がまずそれだ。一票の格差をどう捉えているかにもよるが、それぞれの有識者を選ぶのに道州均等枠とするのか、社会的な実力影響力を優先とするのかでは、中身はまるっきり異なるからだ。
 それで、内政よりも外交重視路線ばかりに偏れば、道州制を維持できるかどうかも怪しくなるのだから、その辺りの調整がもどかしいと思われる。

 次に有識者の頭数と報酬だ。評議会制度ともなれば、低いコストでも構わないと思う。そちらの方が堂々と意見が述べられるだろうし、負担も少なくて済む。
 決定権を有したければ、立候補に名乗りを上げればいい。そういう意味での中央の政党というイメージが成せるのだ。
 ただ、その場合での中央政党の数が10も20もあるようでは怪しい。
 評議会の適正数と思しき評議員議員数から得られる立候補の用立てが、ズラズラとしてしまうようでは、意見交換が評議会のレベルで成り立っていないと見られるからだ。

 だとすれば、政党数の認可を一定規模に維持させながら、法案成立への道のりを辿る方が賢明と言えそうだ‥

 それとも、決定権を担うメンバー数を思いっきり少なくしてしまい、政党数の方を自由とするべきだろうか。たとえば政府メンバー13名だけとかね。つまり、政府権という新たな考え方だ。
 評議会にて大方の方向が決まるのだから、何も新たに法案を競う必要はない。必要になるのは文面の吟味だったり、施行時期の調整だったりだ。それに対しての決定権を有する代表を政府メンバーとして送り込むという中身とするのである。

 必要であれば、政府メンバーが多数決にて、評議会議員の中から随時大臣を任命して役職に用立てれば良い。その場合の任命された大臣は、どこの政党にも属していないとして受け取られ、すべては政府メンバーからなる政府の決定に属するという立場になるのだ。
 勿論、受諾するに及ばないのだったら断るか、早々に辞退すれば良い。それで大臣任命が成り立たないようなら、政府メンバーの解散という約束にでもしておけば良い。
 その時の最たる役職が防衛大臣という形であれば、政府誘導の戦争参加を抑止できる可能性が高くなる。
 つまり、防衛大臣だけは必ず政府メンバー以外から選ばなければならないとしておくのである。

 また、従来の二院制議会としての決定の在り方を存続したいのであれば、政府メンバーが決定した法案を再度評議会に回して多数決をとれば良いと思う。
 この辺りの細かい言い分は理論ではなく国民性だと思う。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 02:50 | Comment(0) | 金慮 | 更新情報をチェックする
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