1-5)改稿.2015/09/03...20120117...
「忠臣蔵って何?」
> 実を言うと‥2011年の師走まで、忠臣蔵の中身を知りませんでした。
> 「なぜ、日本人はそんなにも忠臣蔵に心惹かれているのか?」‥のレベルでした。
そこに、2011年の師走のタイミングでTV各局で特集が重なったので、全部視ました。
‥中でもテレ東番組で紹介されていた大奥の陰謀説はおもしろかったです。
以下‥その紹介内容と、個人的な推理と感想を加味してまとめておきました。
1-5)1
忠臣蔵の敵役になった吉良上野介の吉良家は、将軍・足利家の流れを組む高家です。
その吉良家の地盤は三河にありました。ちなみに足利家の地盤は現・茨城県足利市の一帯です。
足利家が朝廷より三河に領地を許されたのは、松平清康の代よりも古きからであり、
森山崩れ(松平家)の最たる要因に、吉良家が絡むとする推理が思い浮かびます。
松平清康が朝廷に出向いた時分、朝廷のお抱え忍者衆の棟梁だった初代服部半蔵が、
清康と意気投合し、のこのこ三河の地にまでやって来た事自体が何か変だと思っていました。
‥服部半蔵は、清康が吉良家に手を出させないためのお目付役だった可能性を外せません。
清康の娘(俊継尼)が吉良家に輿入れしていたとの話ですが、その輿入れが
森山崩れの前か後かでも、随分と話が変わってきます。
‥後々的に吉良家にとって、松平家の遠戚だったことが、家康の性格から所領を安堵された様子。
(吉良家の領地は、その当時に目立った手柄も無かったのでほんのお情け程度に据え置かれている)
> その時、同時に松平家は、今川家の遠戚にもなったのです。
吉良家の分家が今川家だとの話です。
分家の今川家の方が勢力が増し強くなったことから、吉良家は今川家の傘下に付いています。
必然的に、格下の松平家は、今川家の目の上のたんこぶに見られました。
しかし、せっかく遠戚になった松平家と無理に事を構えるのは避けたい所です。
遠戚関係にあるというのに、強引に事を荒立てては、下位の者たちからの忠義は望めません。
それでも、三河の地の豊かさを思いのままにしたいと思うのが今川家の思惑にありました。
そこで‥「松平広忠の暗殺を仕組んだのでは?」‥との推察が入ります。
遠戚関係にあったのと、三河武士の忠義心ぶりとが相合わさって、叛意も見られず
松平家は体よく今川家に吸収されていた。(へぇ)
そもそもにして、それ以前にある前提には
清康が朝廷から三河の地を安堵されていたという意味が含まれていそうです。
‥今川家が三河の地に代官を送り込む範囲に留めていたのは、そんな絡みもあるのでしょう。
家康が祖先に習って徳川の姓を名乗るようになった点を合わせても、その辺りにまだ謎が‥
> 「もともとの徳川の姓って、そもそも何?」
(清康もしくは前の先祖が朝廷から松平の姓を頂いたので、松平を名乗っていたとか‥???)
(‥だとしたら、なんでそんなに高待遇されてんの?)
(やっぱ血筋だから‥って、じゃどうして忍者のお目付役なんか引っ付いてんの?半蔵の気まぐれ?)
(でも近い血筋になかったら‥将軍家の血筋に嫁を嫁がせるなんざ、前代未聞の話になってしまう)
(じゃさ‥家康=源氏の話は、権力者に有りがちなでっち上げとは段違いでの筋ってことじゃん)
1-5)2
> 話を本題に戻します。
番組では、大奥の絡む陰謀説の時代背景に
水戸光圀が自分の息子を将軍職に送り込もうとしていた策略が絡む説を重ねて紹介していました。
(光圀は、生類憐れみの令が大嫌いだった)
なんでも虎松(徳川家宣)は生まれてまもなく、とある事情から外に出されており、
好機と見た光圀が、自分の隠し子の誰かとすり替えて、
綱豊(徳川家宣)に仕立て上げたのではないかと推理されていました。
‥あずける段階云々に天樹院(千姫)が関わっており、その筋からすり替えたとも。
そんな陰謀説の中でも重要なのが、次期将軍の妻として待機していた綱豊の正室・近衛熙子です。
水戸光圀と近衛家は縁戚であり、近衛熙子は光圀の正室のおいの娘にあたります。
さらに、近衛熙子と大石内蔵助とは遠戚にありました。
正室になった近衛熙子は、自分がさっさと将軍の妻になりたかったという事情から、
大石内蔵助に仇討ちをたきつけたというのが番組での説です。
‥諸処の成り行きから、浅野家は後に許されて復活し、大石内蔵助の息子を取り立てています。
> しかし
紹介された陰謀策だけでは、
どうして浅野内匠頭が命令通りにクーデターを起こすに至るのかまでの位置付けができていません。
たまたま起きたからちょうど良いとばかりに、大石内蔵助をたきつけたのか?
(‥番組では、浅野内匠頭に対して何を仕掛けたのかについては白紙のままでした)
ただ示されていたのは、浅野内匠頭は素行の悪い人物だったと言うことです。
普通、素行の悪い人物に頼み事なんてしません。まして‥
「わらわのために死んでくれ」なんて頼もうなら、どんなことになるかなんて誰にも分かりません。
‥確実を遂げる上でも、表立ってバレそうな不安定要素を避けて通るのが筋というものです。
> 「此の間の遺恨覚えたるか!」‥なんのことだかさっぱり。
未だ歴史的に、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった原因が不明とのこと‥
‥昔の人の悪知恵は、相当の知能犯だったとの解釈もできてしまう話です。
吉良は浅野を指導監督する立場でした。(高家筆頭)
浅野はその下で、朝廷の使者を迎える係でした。‥そんな間柄での2回目。
浅野は賄賂(授業料)意識がまるでなく、吉良に贈った品が鰹節2本だったという話があります。
賄賂意識に疎い?‥ただの真面目か、世事に疎いか、恥知らずか。
‥ただの真面目がいきなり切りつけるとは思えないし、
‥曲がりなりにも殿様だし、賄賂意識に疎いって、自藩の中ではどうなんだ?
‥塩で潤ってたから、藩士の素行はすこぶる良かった。(忠孝織り込み済み)
浅野内匠頭は、殿様のくせにちょっとズレた世間知らずだった。(まぁこれならいくらでもありそう)
‥その者に対して、殺したくなるほどの嫌がらせを吉良が浅野に仕掛けた?
‥大人げないにも程がある話だ。否、そこまでできるの?(この二人、顔合わせたの何回だよ)
となると、この説の前提とされる嫌がらせを仕掛けたのは誰かということになる。
1-5)3
> 斬りかかった原因が不明なのに忠臣蔵が持ち上げられているのは不自然です。
いくら主君の無念を晴らした忠義の士々として讃えられていたとしても納得できません。
‥もしこの素行の悪さという点を利用したというのなら、
‥ドラマ的な筋書きとして、次のような貶めが思い浮かびます。
原因とも二人の接点ともに挙げられているのが、朝廷の使者を迎える接待準備という点です。
・近衛家は吉良家を排除したい。
・熙子は将軍の妻になりたい。
・水戸光圀はその話に好意的。(光圀は、生類憐れみの令が大嫌い)
であれば、近衛家の側から浅野に恥をかかせて、
その原因を吉良上野介の責任であるかのように誘導してしまうのは、有り得るかと思われます。
‥「此の間の遺恨覚えたるか!」なんとなくそういうことなのかと想像が付いてきます。
ですが、どうして浅野内匠頭がひと悶着を起こすと言えるでしょうか?
そして、思惑通りに暴走されすぎても困るのです。
浅野が吉良を殺してしまったと言うだけでは、将軍にまで責任が及ばないからです。
‥将軍にまで責任が及ぶこと。ここがとても重要かつ狙いにあるのです。
> 近衛家が浅野に対して調整できる仕掛けと言えば
浅野と吉良の出会う日程を操るぐらいでしょう。もしくは手紙でのなりすまし手口です。
‥吉良がわざわざ格下の浅野に出向いてまで会いにいくことは有り得ません。
‥浅野の苦渋の籠もった文にしても、吉良からしてみれば存ぜぬ内容として捨て置くでしょう。
‥浅野にしても、腹を立てている相手の地にまで乗り込んでいくなんて真似はしないでしょう。
すると‥二人が顔を合わせられる場所は限られてきます。
浅野にしても二人きりの場所よりは、公然とした場での方を選ばざるを得ないことになります。
‥何しろこの二人、朝廷の使者を迎える接待準備がなければ顔を合わせそうにない間柄のようです。
つまり、二人が出会う場所には、陰謀の手の者が待機しており
浅野の動きを四六時中伺える手はずが整っていた‥という次第になってきます。
> 「此の間の遺恨覚えたるか!」のその瞬間‥
‥できれば浅野が刀を抜いていれば、これ幸いに取り押さえた者勝ちになります。
抜いておらずとも、ある程度ひと悶着しているところを止めに掛かり
浅野が暴れてくれれば、浅野の脇差し何ぞを抜いて転がしておけば、お咎めものになってきます。
実際には、うまい具合に事が運んだわけですが、失敗だったらどうするつもりだったのでしょうか?
そう考えれば、この手の話の前段階によくある刀のすり替え(浅野の刀をなまくらにしておく)を
やってのけていないというのではお話になりません。やるからにはそこまでやったはずです。
尚且つ、切られた方の吉良の医療処置もまた迅速が求められてきます。
‥そこまでやっていたのだとなると
これはもう、浅野家の復活も前提に入れていたと考えた方が良いのかも知れません。
(吉良に即死されては、復活のお膳立ても整わず終いになってしまいます)
> ‥その後、吉良家は断絶しました。
高家筆頭の役職に就くことになったのが五摂家の筆頭、近衛家のはずです。
この辺りの解説は入っていませんでしたので、どうなのでしょうか?
それを思わせる内容として、近衛家は吉良家を嫌っていたという下りが繰り返し述べられていました。
> 生類憐れみの令の綱吉にとって、城中で殺生沙汰を起こした浅野は罪人です。
されど、その裁決が一方的で納得できないとばかりに忠心にも立ち上がった者たちまでを
ぞんざいに扱ってしまっては、すべての武士に対して自らの立場を無にする次第になってきます。
‥武士の棟梁としては、そのままというわけには参りません。
また、生類憐れみの令を簡単に退けてしまえば、幕府の面目は丸つぶれです。
‥幕府の面目を保つには隠居しかありません。
その辺りの段取りを裏から追い込むように操っていたのが水戸光圀と近衛家だったとしたら、
浅野の動機を隠蔽してしまうのもそんなに難しいことではなかったと思われます。
‥それにしても、もの凄い策略です。
それほどに策を講じなければ、生類憐れみの令はまだまだ続いていたということだったのでしょう。
それの意味で言うなら、徳川綱吉を下ろすための出来事としての忠臣蔵は、
庶民にしても武士たちにとっても、英雄大事だったのだと思います。
1-5)4
> ではここで、主役の大石内蔵助に注目です。
下からはなんだかんだで藩主の仇討ちの総責任者に押し上げられ、
上からは綱豊側からの期待がのしかかります。
でもちょっと待って下さい。
いくら次期将軍から期待されているからと言っても、自分の主君は浅野内匠頭だったのであり、
そこに繋がりのある近衛家、自分にとっての身内、
その近衛家と縁戚になった綱豊‥つまり忠義とはなんら縁のない所からの頼み事を引き受けるのは、
武士の義理立てとしては何の益にもなりません。
‥言ってしまえば、そんな理由で死ぬ価値なんてないんです。
かといって、主君の主君も主君というのなら将軍・綱吉こそがその時点での武士の主君であり、
その判断にひと悶着起こすことは、必ずしも忠義たる姿勢には成り得ません。
それでも、元部下たちからは天誅を下さなければ収まる所がない勢いです。
そしてそれは、全国の武士の注目の的になり、
幕府としても吉良上野介への討ち入りは起きて当たり前とばかりに警戒され、
厄介払いとばかりに、江戸城から離れた下町の郊外に吉良上野介の屋敷を移させています。
つまり
武士にとっての主君は、自分が直に仕える主君だけであり、
それ以上の権威に義理や忠誠を立てるは不要との阿吽の空気になっています。
(歴史的にもそれで十分だとの認知がここにされていたと言うことになります)
> 是を武士の言い分に表すと‥「資本家からの指図無用!」チーン。
元赤穂藩筆頭家老だったとはいえ、この時点での大石内蔵助の立場は中間管理の立場と同じです。
(まぁそんなこたぁ本人の胸の内での話でしょう‥)
遠戚関係たる次期将軍・綱豊側からは「死んでくれ」
討ち入り組からは、「一緒に死んでくれ!」
大石内蔵助にしてみれば、「将軍が遠戚者に替わるなら赤穂藩の復活も有り得る‥」
> そして下した大石内蔵助の判断は、まさに忠臣の鑑だったのであります。
> 彼は、死を以て、将軍・綱吉の暴走劇に幕を下ろした立役者になったのであります。
‥という訳で、一説にとどまっていた忠臣蔵の蔵は
上から見た時の「忠臣+蔵」であり、
商人が幅を利かせていた時代に
ひと花咲かせた武士道=忠臣精神復活のシンボルとしての「忠臣+蔵」だったのです。
つまり、大石内蔵助の「蔵」だったとの見方が成立します。
1-5)5
「でも、だから何?|そんなに忠節が大事なの?」
> 本音言わしてもらうと
> 詩人という自由人のカテゴリーに入る著生からしてみると、どうしてもそう思わざるを得ない。
大体だね、仇討ち精神に満ち満ちている社会性というのが
そもそもにして、もはやよく分からんのだよ。そう思わないかね。
仕返ししてやりたいと思うにしても、他人のそれなんて仮想の世界でしょ。
自分的に見ても、理解は示せるかも知れないけど感情移入することではない。
逆に、そんな簡単に仇討ち話に感情移入できてしまえる感覚というのは、もはや危ういでしょ。
無論‥個人的な事柄が絡もうなら、そりゃ
坊主嫌えば袈裟まで憎いの性格にありますんで、徹底姿勢でイかせてもらいますよ。
‥その範囲の理解で十分だと思います。以上、お粗末。