2012年02月10日

雅腐道のすすめ

1-4)0
 人は、雅に腐ることをどうしようもない程に溺愛する生き物である。


1-4)1
 他人の豊かさのマネをしたいと思うのが、人の心理である。一方で、他人の貧しさをわざわざマネしてみたいと思わないのも、人の心理である。

 先進国の人間が、水事情の劣悪な環境で暮らしたいと思わないことでもそれは理解されるだろう。後進国でも、きれいで安全な水が今日から飲めると分かれば、もう後戻りなどできないのだ。
 そうだ、それが人間なのだ。自覚しよう。

 さすれば、開き直りとて正論化されることになる。
「雅に腐って何が悪い‥」とね。
 ああ、そうだ。贅沢は敵でも何でもない。
 本能とも、生理的欲求とも、知性的欲求とも言える現象だ。

 しかし、雅に腐るためには、どうしたって、他人を押しのけて贅を手にする必要がある。
 それが、物理的な事情だし、生産的な事情だし、流通的な事情である。
 そして何よりも競争的な事情として思われている。

 それで、昔からその席の奪い合いが競われてきたというわけだ。

「何も悪くなんてない。それが人間だから‥」上に立つ人間ほど、そうやって説き伏せてきたことだろう、自らの良心という奴に‥



1-4)2
「‥どいて下さいよ、雅に腐りたいのは貴方だけじゃないんだから、どいてくれないのなら実力行使ですからねッ」

> それも正論。それの繰り返し、だから雅に腐るとの表現に至った。雅腐心。

 そのとりとめもない繰り返しが、人間の行動原理であり、モチベーションだった。
 それを愚かと罵るだけではただの雑魚である。それこそその辺で単に腐るだけ‥
 そうだ。人は、雅に腐りたいのであって、ただ腐りたいのではない。腐るにしたって美学を求めて止まないのだ。それが生きるという実感だと思い込んでいる‥否、そういう風に造られていると自覚したっていい‥雅腐心とはそういうものだ。

 何はともあれ、雅に腐る権利を獲得している層ほど社会的な発言力が高い。皆でそれを認めているという何よりの証だ。それはどうしたって動かない。民主主義の行き詰まりもそこにある。



1-4)3
> ならば、雅腐心の立ち位置に手を加えてみようではないか。

 皆で雅に腐るには、地球がいくつも必要だ。
 しかし、とかく真面目にインフラの整備をあーだこーだ論じてみたところで、それで誰がどれだけ儲かることになるのかなんて言っていては、地球がいくつ必要かを論じる前から、段取りの数を請け負いたい事業者数だけ地球も機会も必要だにすり替わるばっかりだ。
 そしてそれを消費するためだけに求められる得体の知れない顧客も市場もね。

 何が一番に儲かるのかなんて考えるから、ただの分捕り合いにしかならない。

 雅に腐るにしたって、途中で下ろされたり幕が閉じたりするのは、誰だって嫌なのだ。
 そこを自覚すれば、どうしたって平和的な発想が求められる事になる。

 だから、そういう物理的なことに角を立ててばかりいないで、皆で如何にして雅に腐ることができるのかに注目すべきだろう。
 ただし、無い物ねだりは成り立たない。そこはキッチリ理解していくべき事だ。
 全体でその手の理解が得られていないから、前に進まないことになる。

> 全体の生産力から、どれぐらいの贅沢までが消費可能にあるかの平均値像の公開が常に求められると言うことだ。技術革新の度にね。

 それにしたって、金額ベースで見ていてはまやかしにしかならないから、金額ではなく、全体での必要量と不足分の割合を算出させて推し量らねば意味がない。
 つまり、金額には意味がなかったってことになる。
 市場原理とか何とか言っているが、それは実際のところ、勝手に作り合っているから、過剰分からは利益を生まない、誰も活用しないからという話でしかない。
 そこにあるのは、どうしたって活用の既成概念だけなのだ。
 もともと、地球の数がいくつあっても足りないという話が前提になっているのに、過剰分からは利益を生まないなんて言っていては本末転倒である。

> 雅腐道の言葉を用いれば、それだけでも理解の共有が進むだろう。

 過剰分は値段を貼らずに物々交換。否、そのままを投資財として、何かに活用できないかを考えればいい。その見返りにできあがったモノなり権利とを交換するという発想だ。

 放置していては、それこそただ腐るだけ、雅に腐らせてやろうと思えばこそ、有効活用にも繋がって行く。それが普通の理解だろう。
 もちろん、余ってしまった範囲でやればいい。無理に過剰生産を狙っても損が膨らむだけである。



1-4)4
 発酵食品は体に良い。それはまさに雅に腐るという在り方のお手本だ。

 人間もそれを心懸けるべきであり、昔ながらの上級社会の雅に腐った有り様を、いつまでも社会の癌のように扱い続けるのも進歩がないと言えるのだ。

> だからこその雅腐道のすすめと相成った。


 ‥昔の公家に雅腐心はあったが、雅腐道があったかどうかは別の話。風情を極めた歴史的建築にそれを見いだそうとしても、所詮は造ったのは職人で、公家はいいとこプロデュースしたってだけ。
 だが、民衆は違う。そこに上流も下流もないのだ。だからこそ、雅に腐れば良いのだ。
 一般にそれを平和ボケというようだが‥何を目指しているのかを説いていない、それがボケの意味でもあるのだけどね。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 04:27 | Comment(0) | 金慮 | 更新情報をチェックする
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