2012年03月16日

002 お金と発行と面の皮

1-2)1
 古来よりの創意工夫の結果、今やお金を増やす・発行するための方法として、紙幣があり、電子マネーがある。
 それの極論を挙げれば、口座の中身のデータを書き換えれば、いくらでも増やせるという技術面での獲得を得ている。

 しかし実際のお金の増え方・発行は、特定の商人たちの都合に左右されている。裏付けの都合とも言えるだろう。
 それが市場原理をもっともたらしめているわけだが、それはそのままに、特定の商人の財力もしくはそれぞれの事業成長力の都合でしかあれていない。
 決して人類全体での都合などというものではない。地球生命全体での都合などと言うものではない。
 ‥にも関わらず、らしく見えてしまうのは、自由の名の下に、世界地図の中を多くの者たちが勝手きままに蠢くからであり、中でも、生産に重きを置いた面々に担われているというお任せの連鎖になっているからである。
 それゆえにその全貌が把握しづらく、そのままで居てもらった方が発生し続ける根本因果に対して、目を逸らしておける効果を持つ。いわば、不公平に対して鈍感で居てもらった方が、何かと、私的な思惑での経済企画が立てやすいと言ったところだ。

 その証拠に、人類の底なしの欲望は呆れるほどに頑丈だ。生産よりも消費である。だからこそ、成長率などと言う田分けた言い分が成り立つのである。
 本来なら、生産可能なだけでなく、必要と思われる目安分だけを供給したら、あとは休業でも暮らして行けるように計らわれて然るべきだと思うのだが、そうはなっていない。

 それがどこまでも市場競争という足枷なのだ。

 それは自由にしてあるからそうなるのだから、誰かがそれの調整を請け負わなければ、地球はあっという間に破産することになるだろう。

 それの視点を見るだけなら、どこにも間違いが見当たらないように見えてしまうものだ。

 だから、どうしたって、ちまちまとしたペースでの発行が繰り返され、人口がさらに増えてもそのペースは相変わらずにある。なにはともあれ、国債という操作された仕組みが要にあるのだからそうなる。否、裏付けが無いと発行ができないという頑固さだろう。
 地球全体の人口増加で割れば、一人あたりの取り分は減る一方だ。そこに抜本的な対策を施さなければ、どうしたって不公平は生まれ続けることに変わりはない。
 それでも、ちまちまとではあっても、発行分だけの成長率は維持されることになる。
 それが数字上での辻褄なのだ。
 だから景気は、いつも玉虫色に感じられ、希望が転がっているように見えるだろう。そして人口が増加した分だけのチャンスもまた同じように感じられることになる。
 しかしそこには、その裏返しとしての不幸もまた同じように転がっているという理解がなされていなければ何の解決も見いだされるまい。

 されど民主選挙などという奴は、景気回復へのステップを主張しておかないと当選できない定めにあるのか、矛盾の指摘だけでは通らないかのようだ。否、国民の側にもそういう考え方が根強い。だから、どうしたって良くなるわけがない。
 それが資本経済を基軸にしたままの民主選挙の澱である。
 インチキと言えばインチキにあるが、まったくの不誠実とは見られない点が、民主選挙という枠組みだ。

> しかしである。そこで見せるべき誠実は、地球に向けられてこそであるべきだった‥
> そこを見事に裏切ったとなれば、どうしたって不誠実だったということになる。

 そしてそれは選んだ側、日々資本経済を消費する側にも当てはまるのだ。
 ゴミを散らかさないという段階すらクリアーできない人類でしかないのであれば、誠実を示せと誰かを叩く前に、まずは自分から示すべきにあろう。
 そうであれば、発行を担って来た連中がすこしぐらい馬鹿に見えるぐらいがちょうど良いということにもなろう。それが釣り合いといえば釣り合いだからだ。

 人類の多くは、生産よりも消費分配の方に意識が行くばかりで、生産への生真面目さをそれほどに多く求めてなどいない。それが合理化、機械化、ロボット化の流れでもある。
 求められている生真面目さは、日常管理に対する生真面目さと言ってもいいだろう。
 これは民主選挙の選び方に見られる特徴と同じで、人との関わり方の方向性の意識問題そのものだ。人が克服すべき課題にあたる。
 人を知らずに人は選べまい、それと同じである。生産を知らずして管理は成り立たないのである。もし違うというのなら、その管理者は、現場を一度も見に行かなくてもモニター画面の報告だけがすべてだと思っているような危うさを孕ませていることになる。

 資本主義の台頭以来、地球という足下‥地域という地場‥そのような日常一番に拠り所とすべき生産基盤が中心ではなくなり、暮らしが成り立つなら、生産の基盤はなにも地元になくとも地球内であれば十分という見方に変わってしまっている。
 その結果、隣人との繋がりが希薄になり、希薄で乾いた分だけ自制もないがしろになった。多くの者が、何食わぬ顔でプライベートを強調するばかりに変わってしまっている。
 それは流れだから止めようもないが、だからといって自制の許容域までを縮めてしまっては、民主主義など有って無いようなものだ。

 そこにあるのは民衆が貴族化してしまったという痕跡だけになろう。その結果、大量生産・大量消費の犠牲を強いられていたのが地球環境だったというわけだ。

 それではどうしたって、贅による環境破壊が深刻になるのは誰の目にも明らかなのだから、多くを持たせるべき段階にあるとは判断されるまい。もしくは、消費する暇さえ与えずに鞭打ちするように仕向けるしかなかろう‥

> つまり、すべてはそういう天意の絵図にあったのだよ。



1-2)1
 詰まらないことを言うようだが、人類の多くが良くできた存在で、自制すべきを自制し合うようにあるなら、お金の仕組みに新しき概念など付加する必要などないのだ。
 なにしろ、負債などという奴は、投資した側が、投資した案件の体現を見届けた後に、丸呑みすればいいだけのことなのだから。
 親が子に向かって、教育に掛けた額の返済を求めるかね?‥求めたとしても、家督の跡継ぎぐらいのものだ。
 そのようにあれればこそ、「人類の多くが良くできた存在で」‥という表現を可能たらしめることになるだろう。

> お金という道具に価値はない、道具をどう扱うかで人の価値が問われるのだ。
> あなただって、他者に対してそう思って生きているはずだ。

 だから、お金の仕組みに新しき概念を模索するということと、それを考えて提案すると言うことは、それを語る側の人としての真価が問われるという中身にあたるというわけだ。

 永遠の転生流転の流れの中で、それの提案で失敗するような大恥を誰しもは掻きたくはあるまい。なのに‥不思議と今時の風潮は、憲法改正改正とあまりにも軽々しくて、「皆さんって随分と立派な方々なんだなぁ」と、恐悦至極この上ない。
 だって同じ事なのだから‥石橋を叩いて渡らないぐらいの慎重さが空気だと思う。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 02:28 | Comment(0) | 壁際の懲りない拝金 | 更新情報をチェックする
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