2012年03月16日

003 褒美という名の美酒と毒

 その昔、王には発行権(鋳造権)があった。それがいつ頃から発生したのかは、貨幣経済がいつ頃から発生したのかと同じぐらいの起源に遡った話になるだろう。
 そもそもお金が発明されたからと言って、王がそれを即座にお金のなんたるかを理解し、その権益をどうしていくのかという具体的なことを思いついたとは思えない。それが世間一般の頭の固いお役所体質への理解ともなれば、なおさらだったと思う。

 ゆえに、お金の魔力は人々の間に少しずつ広まり、いつしか、力の強い豪族が自ら王に成り上がると、貨幣を鋳造できる権限を我が物にした‥と考えておくのが一番にシンプルだと思う。

 しかしそれにしたとて、当時の下々の庶民にしてみれば、そんなキンキラの金属の塊で取引ができようとできまいと、物々交換が身近だったし、それで十分の理解だったろう。
 それが基本にあれば、地域の治安を守ることがその等価交換であるとして、庶民に納め物を要求していた土着の豪族たちにしても、その土地で採れた産物で事足りたはずである。それが自治領を守ると言う意味合いだったことになる。
 それで満足できなければ、他国を侵略する意図に繋がるわけだが、そこにある懲りない因果が豪族の豪族たる特権を維持させていたわけだが、一方の民衆までもが同じだったとは限るまい。
 その流れに乗らんと欲するだけの「長いものには巻かれろ」の心情が起こるべくして起こるだけの因果があらねば民衆は動かないものだ。
 そう考えれば、何も巻かれるのが当たり前という視点ではなかったと思う。戦なんて、みんながみんなしたいわけでは無いのだから‥

 だから、お金を世紀の発明品として捉える場合、流通経済の都合を頭から優先させるのではなく、その当時のニーズがどうだったかを読み解く方が無理がないように思う。

> 国の治安を守るには、守る人が命を懸けるのだから、より優れた兵を集めるには、希少性が高くそれの行いに対して相応しい、誰にでも自慢できるようなインパクトのある何かを褒美にする必要があった‥そう考えてはどうだろうか?

 そこから金や銀、宝石の類の加工品がもてはやされ、いつしか形式的にあちこちで金や銀の塊を大雑把に分け与えるのが習わしとなり、それが増えたお陰で、日常的に金や銀での取引が成り立てば、それを奪い合うためのいざこざがさらに戦を呼び、それではいくらあっても足りないことになって、目方や大きさ、含有量等の細かい取り決めになったと考えられる‥そっちの方がしっくり来ると思う。
 それが、金や銀の希少性ゆえの理解だったことなる。

> つまり、誰がお金を概念的に発明したとかではなく、成り行きからの必然を総合的に膨らませて解釈するのである。

 例えば、王の仕事の第一は、国家の治安であり、とくに外敵から領民を守ることはその最たる仕事であった‥と考える。
 そうであれば、その第一義務を、賄われる税から果たすことができてさえいれば、今風に語られるような流通経済を活性化させて、さらに多くの繁栄を求める必要を、王自ら願う志は起きなかった‥と考えたとておかしくはない。
 それが、貨幣草創期の時代性を見つめなおす上での一つの道理になるかと思う。

 だが、国が貧しく、民自ら王に進んで、他国の繁栄を自国に求めるという要望ともなれば、王は民にそのための見返りとしての命を求めることになるだろう。
 それが志願から徴兵への理解へと繋がっていくことになる。もしくは、増税を課して、柄の悪い傭兵を雇うかのどちらかだ。
 なぜそうなるかは、それが等価交換の考えに基づいているとの判断になる。
 租税で賄うべき範囲は、今ある領地の維持であり、それ以上の戦には、それとは別の見返りが求められると考えればそうなるだろう。それが王の立場というものだ。

 ゆえに王が優秀であれば、国内の租税の範囲でなんとかすべきなのが、領主の責任となりえ、それが成り立ってさえいれば、遠征をしてまで戦を求めないのも、王の王たる筋目になる。そもそもにして自領民ほど戦を好まないのが普通だ。
 だからこそ、和平の証として他国と交易をするとの考えもあるが、結局はその交易の安全を保障したり、こちらからの交易品を見繕うという話にもなれば、それはそのままに民にその分の負担を求める事になるのだから、性質における違いはゼロのようなものだ。
 違いが明らかにあるとすれば、流されるだろう血の量の多少だけであろう。
 そこで、国が貧しいからという事情にあれば、残された選択肢はもはや力尽くしかあるまい。それが野蛮であるかどうかではなく、力が強く、正しく賄う王であればあるほど、民の王への期待も安易にそこに集中したと思われる。そう考えるのが一つの流れだと思う。

 ただしそうあるためには、国家としての威光や規模が、ある一定の規模を有している必要がある。
 それは、敵国との対峙の前に圧倒的な差があったならば、民は王の武勇にはこだわらずに、大国への臣下の礼を望むのもまた歴史の流れの一つだからだ。

> 豪族が身勝手に領地の拡大を目論むような意図とは違い、民自ら進んで、王にさらなる繁栄を願い入れるということは、そういう筋書きが下地になる。

 民主経済などと謳い、今時の経済をもてはやそうとも、軍の運用と比較すればそれだけの話だ。それはそのままに、今の経済社会がその経済基盤の維持に、一定規模の市場が欠かせないと言う理解と同じだった‥、それだけの話になる。
 そこを思えば、昔から豊かさの犠牲に強いられてきた民の負担という本質的な部分は、何一つ変わってなどいないのがよくわかるだろう。

> 民衆の生活への飽くなき渇望がそうさせていたとも言えることだ。
> ただし、それの一番の嘆願者が遠征商人だったともなれば、毎日の生活を領内で暮らす素朴が取り柄の地元の領民達にしてみれば、寝耳に水の話だったことだろう。

 民は戦になど関わりたくないからこそ、王に税を納めることで済ますという選択肢を選んで来たのだ。民自らがそこを自覚していれば、自給自足の中での創意工夫の欠かせないことを、民自ら悟っていたであろう。それが故郷での暮らしという基本形の理解だと思う。
 それに対して、遠征商人たちは、旅途中に用心棒を雇い入れるのと同じように、見返りを差し出して、王に願い出るだけのことになる。いつの時代もそういうものだ。

> ゆえに、地元の領民たちにしてみれば、王に裏切られたの感は否めまい。

 なぜ、王がその類の話に乗ってしまうのかは、一つの素朴な疑問ではあるが、それが金や銀を褒美として推奨し、推進してきた存在のミイラ取りがミイラになった瞬間だったのだろう。
 王自身が魅了されていたからこその褒美としての価値基準だった。それが金や銀をお金たらしめたエネルギーだった。
 であれば、商人からその類の話を受けて望まない王の方が矛盾していると言えるのだ。
 だから、もしそこで多くの王が、王自身の在り方としての道徳を選ぶばかりだったとすれば、褒美自体が意味のない詐欺であったという感触が生まれていたことになろう。

 結局そこは、道徳ばかりが世の中の辻褄であるというだけではなく、物に価値を見いだした人の欲としての、辻褄の絡んだ因果にあったと言っていい。
 残念ながら、人類の多くはその類だったのだよ。多くの者が、資本主義に一目置いてしまうという現実がその証拠だ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 02:47 | Comment(0) | 壁際の懲りない拝金 | 更新情報をチェックする
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