2015年09月05日

【刮目】神道は宗教に非ず神道は神道なり

改稿.2015/09/05...20120531...

 宗教をどう定義するかだが、
 有史に見られる宗教の数々に見え隠れするうさん臭さを言葉にすればこうなろうか‥


> 右を肯定し、左を否定し、左を滅ぼさなければ永遠の平和はやって来ないッ


 その範疇からすれば、神道は宗教に非ずだ。
 なぜなら、すべて生きとし生けるものを神とするのだから‥そこには、和の精神があるのみ。
 ‥仇と見なして遠ざけるにせよ、そこが教えの本質に据え置かれるなどとした言い分など無い。


> されど、神道を宗教として錯誤してしまっては、話は混迷するばかりだろう。


 そのように混迷且つ不可解に落ちたのは明治以降である。そして今に続いて居ろう。

 ‥考えても見た前
 我々日本人のアバウトなその宗教観を‥
 無信仰と呼ばれてはいても、信心がまるでないわけではない。
 哲学がないなどと外からいわれても‥日本人の心の内には、神道の教え同然の心が備わっている。

 「それは何だ?」
 自然体として、お互いが生きているその生を受け入れんとした精神にある。

 なにゆえに‥ぞんざいにも排除し合わなければならないのか?
 「そのような教えは神道に無し。神道は神道であって宗教に非ず。」


> 神道とは


 人が神に恥ずかしくないように思うのと同じく、お互いがお互いを思いやるところからから始まり、
 何が起ころうともそこに立ち帰ってくる生き様の学びにあるのだ。

 そこを志す生き様を神の道、神道(しんとう)と呼ぶのである。

 「それ以外に何があるというのか!?」
 少なくともそこが‥神道を、日本を、理解する上での核にあるはずだ。

 特に‥神を目指せと求められているのではない。
 恥ずかしく無きに生きる様を学ぶというそれだけの姿勢を、常に問うっているというだけの話だ。

 ‥どこぞの宗教を、宗教として語らしめるような
 お布施だとか寄付だとかの納めた差が、お導きに差をもたらすなどとのうさん臭さを、
 誰も神道に求めてなどいまい。それが良い証拠にある。


> ゆえに神道は神道である。


 生きることをお互い様とする‥それへの挑戦。それへの志し。
 神なれど完成に非ず‥完成を噛みしめていく道のり。完成を噛みしめていく存在。
 「其は神道なり!」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:31 | Comment(0) | 宇宙な? | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。