1-2)改稿.2015/09/07...20121021...
向こうから願い出ずして、相手への提携も技術供与も一切ありえぬ。
それが実際だ。警戒するのが当然とされて来た。
お節介にも親切が前提などというような次第では、筋が通らぬ。
向こうからやって来るのはいつだって上から目線の支配的要求だ。
少なくとも、お互いにメリットがなければ、関わり合うことはない。
坊主にしたって、悟りへの道半ばでの修行中の身だ。それが前提にある。
「‥涼しげにも、余裕をかましての親切とは何ぞ?」
> 親切の「切」とは
お互いに身を切るほどに切羽詰まった境遇の中でのさらなる親しさを指して言うのだ。
そこに対等がある。親しさと切なさ。ゆえに「親切」である。
‥対等に無くば、ただの恥欠かせに過ぎぬ。決して有り難きになんぞに無し。
1-2)1
> 今の世はどうだろうか?
‥慈善団体などと言う輩が存在しよる。
かつての認識からすれば、とても不可解だ。
其を人類の必要に位置づけようとて、とても不可解だ。
「なぜ、そこが基準にあるのだろう?」
「なぜ、それは基準に成り得たのだ‥それは本物か?」
親切な顔をして向こうからやって来ても、
‥いつだってそこには、侮辱の突きつけが目障りにも始まるのだ。
> まずはじめに‥愛想の良さそうな仮面を被り、こちらを指摘して恥を掻かしよる。
恥を掻かされているにもかかわらず、私たちの感覚はそこを素通りして麻痺してしまうらしい‥
何が有り難いというのだろう。何も有り難いことなんか無い。
‥始まりが侮辱にあったなら、その基本的意識に対等とした親身なんかありゃしないのだ。
「なぜ、お前は、相手の文化を受け入れようとしないのだ?」
何一つとして受け入れる気がないのなら、こっちに来るんじゃない。
必要にあらば、私の方から頭を下げに行こう。それが公平たる姿勢というものだ。
‥ならば、頭を下げに行くことは決して恥ではない。
‥ならば、切羽詰まってからしか行かぬのが道理。そちらの都合など知らぬ。
> ならばそこにあるだろう‥要求ばかりを呑んでもらおうとの心の鈍さを恥と申すのだ。
例えば、戦国大名の浅井・浅倉の同盟はどうだろうか?
‥信長の台頭がその同盟に危機をもたらした。
なんちゃっての同盟でしかなかったなら、真っ先に浅倉方が滅んだだろう。
しかしそうにならなかった。
信長の偽りを封じんとして、結果、先に命を落とす次第に至ったのは浅井の方だった。
それは、浅井が浅倉との同盟を対等に扱っていた証だった。
その姿勢は浅倉にも見られた。
「どうして、自分たちだけ織田に降伏できようか?」
その頑なさは誰の為でもない‥それは、対等を重んじるが故だった。
武士の名誉を穢して尚生き残るよりは、其を護らんとして戦った。
身も家も確かに滅んだ。だが‥武士の魂としては、未だ輝きを失っていない。
> 存在を得たいのか?|それともただ生き延びたいのか?
そのどちらにせよ、対等を願いしも、貫けるかどうかに保証などない。
お互いに‥己でさえ‥どうなるともあてにならぬ存在だ。
‥ならば、その心意気を示せる機会に恵まれなかったのなら「本物」とは呼ぶまい。
‥ならば、その心意気を示すべき機会に恵まれたなら示すべきが本懐だ。
> 平和に住まうことが武士の本懐だっただろうか?
否否、そうではなかった。死に場所を得られて始めて、武士は武士たると思っていた。
ならば、威勢果敢に死に場所を与えて来た信長にも理があったと言えるだろう。
でなければ、武士など詐欺看板同然の生業にも見えてしまうのだ。(歴史的にである)
しかし‥その理ゆえに、理不尽に命尽きようとて「是非に及ばず」だった。
それが対等の姿勢というものだ。そして、死に際に於いて始めて証明されるのだ。
‥ところがどうか、「秀吉の様は何だ?」
あの者は武士ではない。庶民の味方にも成り切れていなかった。
ただの夢の象徴だった。そこにあったのは、のし上がったという得体の知れなさだった。
‥ただそこに振り回されていた。
> 天下人だというのなら、秀吉は秀吉の夢を追うべきだった。
心のどこかで信長になろうとしていた。秀吉が信長になる意味など何一つとして無し。
今の時代なら其は理解されても、戦国の世において其は想像を絶していた。
‥しかしそれへの道を利休の生き様から転じて、拾わんとする筋立てはあっただろう。
蜘蛛の糸は意外と目の前にあるものだ。
秀吉は蜘蛛の糸の前で常に恐怖した‥其は、対等を貫かんとした心意気の欠如にすぎぬ。
利休の自由は常に対等だった。べつに偉そうに何ぞしちゃいない。
対等に疎き者が勝手に畏れたにすぎぬ。対等を肌で理解していたなら感心することの方が多い。
‥秀吉はどうだったろうか。勘違いも甚だしい‥結局はそこまでの器で終えた。
> そして利休もまた、己の影響力の大きさに関心が及ばずの器だった。
利休があのような最期を遂げたのはちっとも見事なんかじゃない。
‥そもそも彼は庶民だ。庶民なりにも飾らないを貫くべきだったと思う。
茶人が茶道を捨つるに至る機会に恵まれたのだ。
それはまたとない好機だった‥だのにそうにせずに終えた。
‥飾らずとしたより強き念いと姿勢があったなら、秀吉だって考え直したかも知れない。
ただしその意図を信用されるには、全ての茶器を秀吉の前で葬る程の豪快さも必要だったろう。
‥飾らないとの信念だったくせに、そこには及ばなかったのだ。(残念)
> あのような無様では、秀吉だって納得できるわけがない。
「利休よ、お前の飾らない茶道とはなんだ?」
「朝顔の件の続きはどうした?」
「‥お前が言われたままに腹を切っては、全てが尻切れ蜻蛉にしか見えて来ぬではないか!」
ただでさえ秀吉は、疑うことしか知らぬマヌケに陥っていたのだ。
それゆえ、利休が武士の真似事に終わっては本末転倒だった。
‥秀吉にそのような覚悟など、とうになかったのだからな。
「命を捨つるに値せずに捨つるは、対等に相応しくなくば、其は恥なり。」
1-2)2
> 滅ぶことのみを恥に思うなら、手本たる存在とは何だろうか?
> 尚生き続ける上での対等とは何だろうか?
「‥死に際に於いてみじめさを背負ったなら、それは対等の不在である。」
「自らの本懐を貫こうとせずんば、対等とした最期など与えられぬ。」
「ここぞと潔く捨つるべき時は、捨つるが宜しい。」
ならば
久遠を求め、全てをし尽くさんと欲するを混沌と呼ばざるを得まい。
混沌の中に対等など無し。そこに有るは、不手際、矛盾、不徹底たる無様にあろう。
死して区切りを保つ‥そのぐらいの気概と慎重さが求められるのだ。
そこに‥日本人の恥に対する念いが宿って来た。伊達や酔狂に非ず。
「日本人のそれが死んで直るぐらいなら、世界の方が先に滅んでおろう。」
「日本人として生まれたからには、己と恥との姿勢対峙に覚悟せよ。」