2012年11月04日

発行権と外国為替に絡み合った盲点&新解釈

1-3)0
 発行権がお互いの国家・国民・民族の主権であるならば、それぞれの通貨比率の決定も主権に置かれていなければならない。
 それはつまり、通貨比率の決定は、国際間で一律に決めてしまうべき事ではなく、お互いの国家・国民・民族の間にある信頼に基づいて、互いの必要から自由に決められるべきとなる。

 これは、相場制ではなく信頼からの政策的固定レート解釈である。

> すると、次のような現象に見舞われることになるだろう。



1-3)1
 ‥世界中で、国の数だけ通貨との関わりを持つ仕組みになる。

 それぞれのレートは、一元化されて居らず、A国通貨を持てばA国の方針と国際関係に基づいた、B国通貨を持てばB国の方針と国際関係に基づいたレートが発生し、それぞれの中には矛盾が生ずる可能性を有する。

> これは一見、実に不便そうな話だが、そんな事はなかった。

 従来の通貨の交換には、発行権に制限があった。それゆえに通貨の裏付けは国債が握っていた。それはつまり支配性の堅持から、権利と権利の交換、利益と利益との交換が成されるべきだとする考え方に基づいていた。
 ゆえに、交換すること自体を前提にしなければならなかった。

 ところがよくよく考えてみれば、発行権をお互いが認め合って有するのであれば、発行した分の通貨に対して交換をする必要はない。転換するという考え方が可能になる。

> これは一般に思われている両替ともまったく違った解釈だ。
 A国通貨をB国通貨に転換したい場合、A国通貨としての発行を一旦抹消し、B国通貨に再発行し直すに等しい。
 これは交換の相手を機会想定する必要がない点で自立している。

 つまり、A国の通貨をB国の通貨にしたい場合、両替でも交換でもなく、A国通貨である形からB国通貨である形に転換すれば良しとする解釈だ。
 それの転換比率を双方の話し合いで決めれば、それがレートになる。
 だから、互いの国同士の信頼と方針で決めるだけの話にできる。
 なにも大げさな国際会議を設けてまでして、すべての国家の順位付けをする必要はない。合理的に考えすぎれば、儲け方も一極化・一弦傾向に陥るだけの話だ。
 そこを避けたければ、転換の比率に多少の混乱が見られても、信頼の度合いによる結び付きの堅持の方を良しとすべきだろう。

 それこそ取引したくない国とは、自国通貨への転換を拒否すればいいし、共通した経済圏を築きやすくしたければ1:1になるように決めればいい。
 仮に拒否していても、それはそれで抜け道は生ずることになる。それがそれぞれの国家間の関係性に基づく矛盾性でもある。
 たとえば、A国がB国通貨への転換を拒否しても、A国とC国で転換を可とし、かつ、B国とC国で転換を可としていれば、C国を介したA国通貨からB国通貨への通貨転換は不可能とは言えない。

 もちろん、転換レートを1:1にしても、国家間の間で生活水準が異なっていれば無理がある。しかし、理解し合った小国との関係であれば大した問題にはなるまい。


> 繰り返して言うと、通貨の転換がなぜできるかと言えば、お互いの発行権の了承が裏付けにあればこそである。
 発行権等の裏付け論に囚われていると、ついつい見逃してしまいがちな発想だった。



1-3)2
 そうなると通貨安・通貨高の解釈もまた違ってくる。

 輸出で儲かるところほど、国の通貨発行量もまたインフレになるという形だ。
 儲からないところは当然として、デフレに陥る。

 すると、転換レートの考え方も違ってくる。

 例えば、A国が輸出で儲かっている大国で、B国が輸入ばかりの小国だったとしよう。
 お互いの関係からA:Bのレートを10:1とすれば、B国の国民は少ない資金でもA国に渡ることを考えるだろう。
 それが逆なら、A国の国民がB国に移動する事を考えるだろう。
 でも、生活水準はA国の方が便利だ。その点において、A国の国民はB国への移動にそれほどに関心があるわけではない。
 であれば、A:B=10:1だ。B国の国民は進んでA国への出稼ぎを考える事になる。

 すると、お互いの政策からある日を境に、レートを1:1にすれば、A国に移動したB国国民は、何の躊躇もなく自国に戻り、A国で学んだ生活経験の中から自分たちに相応しい形を模索することになるだろう。
 もちろん、帰る気のない2世も生ずることになる。だからそうそう狙い通りに事が運ぶとは限らないが、極端なことを言えば、そういう考え方のスムーズに思い浮かぶ所がユニークかと思う。

> ここを従来の考え方で、B国で雇用してA国に輸出して儲けることが出来れば大儲けなんて考えるのは軽率だ。

 なぜなら、ここでは通貨と通貨は交換ではない。転換だ。
 だから、A国で儲かったつもりでB国に持ち帰ろうとするとB国のレートに転換されて、旨味までが一気に減ることになる。そこで考えられるのが他国を通した転換の転換だ。逆になっているルートを経ればいい。
 しかし、それをはじめから考えるなら、どちらの国で雇用しようと人件費に関しては、大した差は生じないって話になるはずだ。

 そしてこの転換の転換は、多国籍企業とそうでない中小企業との間においてフェアーではないし、登記登録だけしておいて実体のない企業の温床になりかねない。
 だからそうならないためのルール作りが求められる事になる‥(※これに関しては、額枠小切手方式の論の中で語る予定です。)



1-3)3
 ‥後付けになりますが、悪性のハイパーインフレのカラクリの一つが見えてきたので記しておきます。


 発行権を有さずにかつ利息を搾り取られる仕組みのままだとします。
 すると、経済力の弱い国はどこからか資金を調達してこなければなりません。
 ここでは、経済力に関わらず、通貨の基準として基軸通貨が存在し、基軸通貨の価値基準を介さなければならない仕組みです。
 であれば、基軸通貨の変動の影響を受ければ、どこの通貨建てでの支払いでも、金利分までもが上がってしまう煽りを受ける可能性を有しています。

 リーマンショックの前頃に、サムライ債が流行っていたと思いますが、今は円高ですので、五年後、十年後の返済を円で揃えて返す話であれば、今頃は金利分までが値上がりしていることが想像できるかと思います。
 それが1ドル50円なんて話に到ったなら、日本だけでなくサムライ債から資金調達していたそれぞれの経営もガタガタになってしまうのが分かるでしょう。

 これに悪知恵を働かせればどうでしょう。
 この原理を応用して、ハイパーインフレを引き起こすことも可能かと思うわけです。

 例えば、返済額はこちらの通貨の時価に準ずるとするが、返済はそちらの国の通貨で返済してくれれば良い‥なんて、めい一杯人のよさそうな契約を相手国側に持ち掛けていたとします。
 その場合であれば、相手国には発行権の認識が多少はあって、国際金融資本からの独立を試みていたなんて状況が想定されてきます。
 それでも通貨にレートは存在します。それが一国としての立場ですし、国際関係の中での経済です。

 それが、何年かして気が付いてみれば、債権国の通貨が超絶に値上がりしていたなんてことにでもなれば‥どうでしょう。
 それを払うための準備に自国通貨を大量に刷り、とりあえず期日にそれで支払いを済ませた結果、それを債権国側が市場を介して全部売りしてしまい、自国通貨の価値が急落‥巡り巡って通貨の切り下げに追い詰められ、その悪材料がさらに悪循環を呼び込み、ついにはハイパーインフレを引き起こす‥なんて筋書きが浮かび上がります。

 もしかしたら、ジンバブエでのハイパーインフレは、それの実践だったのではと勘ぐりたくもなるわけです。
 調べてみると、なにやらそれ以上に複雑な所があるので、必ずしも当てはまりそうもありませんが、歴史的なタイミングとしての可能性には興味深い点が残ります。

 これはつまり、戦争などせずとも、相手方の発行権を上から目線で認めてやったとしても、実はそれなりに二度三度と奪い取る事が可能にあるカラクリかと思います。
 それが、基軸通貨としての立場と金利と変動為替制度をどうしても譲れないとする理屈なんだとも言えそうです。


> ここを逆から見れば、普通に有価商品を売り買いしている限りにおいて、通貨の過剰発行だけでは悪性のスーパーインフレにはならないとの理解が得られるように思います。
 つまり、金利の廃止だけでなく、外国為替の市場取引も廃止しておく必要がある‥との解釈です。

 だからこそ、交換ではなく転換です。その理解としての発行権とレートの決定権をそれぞれが有するべきだとの言い分にもなってきます。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 05:05 | Comment(0) | 金慮 | 更新情報をチェックする
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