2012年11月17日

【刮目】日ユ同祖論はお門違いと理解せよ

1-7)改稿.2015/09/10...20121117...

> 日本おもてなしVS.ユダ金資本


 日本おもてなしは、おもてなしゆえに相手からの要望を受ければ、
 それを一手に引き受けなけばならないと思い込む傾向がある。
 ‥それはまるで、誰に対しても神様の扱いだ。

 日本おもてなしの背景にあるのは、かしずく文化である。それは礼儀作法の類いでもある。
 礼儀作法である以上、できる・できないに恥ずべきの判断をすべきではないのだが、
 なぜか‥「できません」とは言わない。まるでそこまでが作法であるかのようだ。


> 一方で


 ユダ金資本は儲けてなんぼだから、
 交渉に不足が見られれば、何度でも交渉の場を設け、粘り強く自分たちの得になるように努める。
 そこにあるのは自由の主張だ。それも自分たちの都合を通さんとした主張だ。

 一般には其をエゴと呼ぶが、資本ビジネスの中でそのように扱われることはない。

 ユダ金資本はフェアーな顔で、相手にも同じように交渉権を認めるには認めている。
 しかしそれは、せっかく勝ち得た交渉の後から第三者にケチを付けられて無効にされたくないからだ。
 ‥だから、勧める振りをしているだけにある。これは言い過ぎではない。

 交渉時間の場だけが、ユダ金資本と話し合える唯一フェアーなひとときとされる。
 (その妥協無きしつこさに‥学ぶべき姿勢を認めざるを得ないとしても、何様と思わざるを得ない)
 (ユダ金資本の辞書に、公平の文字は存在しないのだ)



1-7)1

 日本おもてなしは、どのような要望にも、愛想の良い顔をすることに懸命だ。
 だから、ついつい曖昧な返事をしてしまいがちにある。

 それでも日本人同士ではそれがまかり通ってきた。
 それは、互いにじっくり練り上げられたそれを用いる次第を最もとした周知にあったからだ。
 だから多少のお時間をいただけるものだと思ってきた。

 ‥でも外国文化相手になると違った。

 容赦なき即決判断、即決回答、そして能力主義‥今すぐばかりを要求する。
 そこには「心を込めて」や「思いの限り」なんぞしおしおだ。

 かしずく文化はゆるりとした文化でもある。
 できないことはできないままでも仕方がないとしてきた。それが昔からの事情だった。
 そりゃ、無理難題への取り組みもしてきたけど、多くが先送りばかりだった。
 ‥いつの間にか、意識共有を以て了解し合うばかりの傾向に陥りがちだった。


> 一方で、ユダ金資本はまったく異なっている


 ユダ金資本へのYESは、自分たちの優位性に屈服した上での了承と見なすのだ。
 そこに示した内容に承諾したものとして徹底的に扱うのだ。
 ‥自分たちの口約束には素知らぬ顔をする癖に、相手からの返事にはもの凄い剣幕だ。

 「約束したよな‥ああ、約束した、約束には誠意を見せるべきだ」
 「でなければ、今度一切取引できない」‥ユダ金資本の文化なんてそんなもんだ。

 ゆえに

 自分たちがそんなだから‥なんでもかんでも曖昧にせず、契約書の中身を絶対とする。
 契約書への同意には、神でもひっくり返せない程の価値があると信じている。

 そこには‥後付けの交渉や、自分たちからの控え目な見直し案など一切無い。
 その癖、書き示し損じた内容に関しては、しつこいぐらいに粘り強い再度交渉を求めてくる。
 それも自分からし出した話にするのではない、なんだかんだと相手からの要望に仕立て上げるのだ。

 酷い時には、わざわざ相手側の失敗や失態を誘い込み、それの代償として要求したりする。
 そんなだから、根本的な解決能力が自分たちに無くとも、なんちゃっての会議を繰り返す。
 ‥そりゃもう、謝罪の一つもありゃしない。

 (そんな経緯からか、契約書の効力に時効を設けるようにもなった)
 (それは、逆転のチャンスを自分たちにも与えると同時に、謝罪をチャラにせんとばかりにある)



1-7)2

 日本おもてなしは、農耕と採取と漁猟の文化に培ったことから、縄張り意識にうるさい。
 だから、お互いに侵さないとした暗黙の了解を信条に交流を続けてきた。
 ‥それは時として、寄り添いに転じ、果ては亀裂に転じ、繰り返しながら丸くなってきた。

 何はともあれ、すべてはお天道様次第だった。喧嘩ばかりしていても意味に乏しかったのだ。
 農耕と漁猟に付きまとった犠牲と見返りを思えば、天地自然と人との対等を受け入れてきた。

 そこに見られた諸処の課題は、常に一貫して共通しており、
 課題克服からの成果は、人の知恵に限らず、神からの授かり物としても理解された。

 だから

 日本おもてなしには、新しき発見を分かち合う精神に満ちていた。
 心を一つとし、すべての存在に敬意を払ってきた。
 そこには常にせせらぎがあった。清らかさに満ちていた。
 ‥穢れなど知らないかのようだった。


> 一方で


 ユダ金資本は、狩猟と移動と異文化との接触が常だったことから、主導権を握るのに必死だった。
 それは、日本おもてなしに見られる土地との兼ね合いからの縄張り意識とはまた違う。
 ‥ただひたすら本能の赴くままに、権利の所在に始終した。分け合うことなど眼中に無い。

 しかし

 したたかな戦略性は‥力尽くで奪うにせよ、交渉で奪うにせよ、
 その争点には、常に権利との葛藤が付いて回った。それは、
 何食わぬ顔で事を構えていても、罪の意識を堪えて這いつくばらねばならぬ次第でもあった。
 ‥そのような事情から、癒やしを求めて、独特の人造宗教や美がもてはやされた。


 対象となる命の消費と癒やしを欲した文化は、
 権利の一極化を余儀なくしても、多くの面で表面上の多様性にだけは寛容で躊躇に疎い。


 各々が自分のお気に入りを手にせんと誰もが興味津々にも得意気だ。
 その性向は家畜と放牧を手にして以降、自分らに都合の良い種の掛け合わせへと好奇心を駆り立てた。
 又、自分たち資源生物に害悪が及ぼうなら、何者であろうとも過剰防衛にも徹底的にやり尽くした。

 自己の権利に必死になるがゆえのそれは、異常なまでの効率を要求し又優先させた。

 所有的に、害にまだ及ばずとも‥最悪を心配し、可能性の芽を摘んでおかなければ気が済まなかった。
 周りが一色になって突き進むそこには、時に暴走を引き起こすに至り、種の全滅が見られた。
 時にそれは娯楽だった。享楽することへの恥に疎かった。

 ‥彼らが

 それの崩壊を目の前に呆然になったとて、そこからの再生こそ人類の叡智だと誇った。
 だから、動物を手なずけたように、天地自然をも手なずけようとも考えたのだろう。
 原子核の扱いを見ても、DNAへの見解を見ても、
 全宇宙的な視点からの因果を気にすることなんかほとんどない。お構いなしだ。

 すべては事が起こってから、それを何とかするのが能力主義だと言わんばかりにある。
 そこに見られる形には周りへの敬意がない。
 ‥それがゆえに片付けるという文化が定着していない。所々に汚臭と腐敗が散見してきた。






1-7)3

 日本おもてなしは、長い付き合いが前提だ。長く続けることへの意識が高い。
 無理を求めず、互いの土地を尊び、生活力の存続に確実を求めた。
 ‥だから、長いものに価値を見いだして敬う傾向に過剰反応を示しもする。

 それでも

 日本おもてなしは、お互い様にあるので、共に汗を流すことへの偏見が小さい。
 それゆえに互いが率先し、百姓文化が成り立ってきた。
 ‥物々交換でも仲良くやれていたのだ。


> 一方


 ユダ金資本は、権利の創出、権利の獲得に始まり、権勢の維持に始終する。
 お宝の発見から技術の確立まで、すべて自分たちの手で牛耳らないと気が済まない。
 それゆえ、誰であろうと相手を押しのけることに躊躇せず、自分たち富の獲得に集中する。

 ‥それは、互いのプライドへの牽制と見栄からでもあった。

 結果、富みに繋がらないことには見向きもせず、そこには権利というものが発生しない。
 自分に勢いのあるままならずっとそのままだ。しかし、流れが変われば途端に翻す。
 ‥搾取することになんの躊躇を見せやしない。要らなくなったゴミの押し売りとて欠かさない。


 ユダ金資本は‥共に汗を流すどころか、上の者は下の者との同席すら嫌悪する偏見の塊だ。


 だから何事も権勢の有無に頓着し、名ばかりの形にしかならない。
 裏付け裏付けとうるさいが‥できることと言えば、上から目線の命令だけである。

 ‥本質的なことを言えば

 ユダ金資本は、諸処の労働は下々の仕事だと思っているから、手作業の妙を知らない。
 そこに達人的可能性への理解を示しても、常に支配構造上からの効率ばかりを優先させる。

 だから、上がケチなり、関心を示さず後押ししないなら
 表面上見られる多様さの容認とは異なり、暮らしそれ自体に多様さへの取り組みは見られない。
 ‥そのようなユダ金資本の文化は、単調さにゆえに、直ぐに閉塞を窮める傾向を見せる。

 トップダウンの言い分はいつだって「予算が無い」の一言だ。

 なぜなら、自分たちの権益から得られた利益は、自分たちの為に在るとしか考えていない。
 だから、税として回収できた範囲でしか民衆に還元しようとしない。
 「お前らのカネでお前らは何とかしろッ」‥それがユダ金資本の唱える税の有り様だ。



1-7)4

 日本おもてなしは、先方からお越し頂いてこそ自らの真価を発揮することが適うことを重々心得る。
 何はともあれ、そこに「おもてなし」が在るからだ。

 ゆえに

 日本おもてなしでは、郷に入りては郷に従えと考える。
 そこには、おもてなしの心の裏に「お互い様」の精神を宿している。
 お国自慢・お家自慢を存分にするにも、内に招いてこそであり、ぶしつけな場所ではしない。

 また

 招かれてばかりでは礼儀に欠く‥其を恥と思えば、誇れる何かを担って当然だった。
 気後れすること無く対等であるとの証を示す上でも、お互いに土産の交換を交わすようになった。

 「近いうちに挨拶に伺います」の日本語は、自からの近況を知らせに行くことであり、
 同時に、お互いの暮らしの確かさを祝う習わしになった。


 おもてなしとは、互いの争いを諫める上でも約束の証だった。
 それゆえに、互いに挨拶の場を設けることが、長きに渡り執り行われてきた。
 ‥おもてなしの民族はとにかく争い事が嫌いである。
 ‥世話になったお国ともあれば、尚のこと謝意を感じて、決して攻め盗るようなことをしない。


> 一方で


 ユダ金資本は、自ら出かけて征って、自らの流儀を押しつけるのが行動原理にある。
 その恥を省みることに乏しき様は、生きながらえるための一つの在り方ではあっても、
 常に最終手段に有り続ける。そこを否定するまでの意を誰しも持たないが、
 ‥いつまで経っても最終手段を用いるしかできない不器用の様は、どこから見ても見苦しい。

 ゆえに

 ユダ金資本のご自慢商品は、いつまで経っても戦争の押し売りだ。
 経済戦争とも揶揄される程に、侵出の向きにしか物事を考える事が出来ていない。
 「見よ!ユダ金資本の内側をッ」‥彼らの撒き散らした関わりは、
 常に荒野に湧く盗賊に遭遇した騒ぎの如しだ。

 ビジネスにしても恋愛にしても、血に飢えたハンターの目でしか物事を見ていない。

 少し大人しく友好の顔を覗かせても、自分たちの用済みと欲しい物との交換を要求するばかりだ。
 ユダ金資本の日常は、どのようであれ‥交換できる何かを手にしていないと何も始まらない。
 ‥どんなに親切にされようと、三歩歩けばその恩を忘れてしまうわらしべ長者だ。

 すべては自分の実力で勝ち得たと信じ切っている。

 だから、ユダ金資本に魅惑されたままの世の中は、
 皆が皆オレオレ主義のわがまま三昧のし放題を当然と思い込み、迷惑沙汰を平気でやらかしてしまう。



1-7)5

 日本おもてなしの根っこには独特の躾がある。
 それは、誠実視点からの躾である。

 「お天道様に恥ずかしくないように。人様に恥ずかしくないように。」

 誠実視点からの躾には、外向きに恥にならないように気を配りすぎる嫌いがある。
 それゆえ、時には是非の論などおかまいなしに渦中の流れにヨイショしてしまう癖がある。
 ‥世間様の選択支に乗っかっていれば間違いなしとした暮らし向きの都合に片寄った勘違いだ。


> 全てのバランスを思えばこそ、自分の意見も述べて良し。筋を通してこその誠実だ。


 でもそうではない。おもてなしはどこまでもかしずく姿勢を崩さない。
 ‥おかげで、時には自分たちの原点を見失い、自信を持てずに相手様次第の低姿勢に陥る。

 かしずく中身は選んでも良し。
 請負の選択は自由‥でも最後まで責任を持つ。それが誠実だ。

 おもてなしだからお客様を選べないと思っている。それは思い違いだ。
 同盟だって相手を選ぶだろう。隣国だからと言っても、長い付き合いだからと言っても、
 だからこそ、筋の通らないことには異議を申し立てるように有らねばならない。
 ‥そうでないのなら、それはおもてなしの心では無い。ただの道具だ。


 繁盛するほどのお客様の大行列を出迎える姿を振り返っても見よ、それこそ道具と化している。
 ‥もてなす食事からしてそうだ。それはなんだ?‥生きとし生けるものの命からの頂き物じゃないか。
 ‥それを道具と化してしまっていると言っているのだ。傲慢ぶりもいいとこだ。


> では、傲慢にない姿とは何か?


 ‥まず、来たる客とて
 その土地の氏神様に「お世話になります」とご挨拶を済ます事が肝心だ。
 土地に住む者ならば、ますます日々そのようにあるべきである。

 古来より、日本おもてなしは、そのように育まれてきた。

 自然と向き合う姿勢を欠いては、人の躾に意味などない。
 躾の厳しさとは、自然と向き合う姿勢を指して言うのだ。
 我が子らに、自らに課した清き姿・潔き姿勢を日々の暮らしを通して、見せることに尽きる。
 ‥なにも、身体にアザができる程に、暮らしぶりの都合上のマナーや作法を覚えさせることではない。



1-7)6

 ユダ金資本の根っこには呆れた自由しかない。
 しかも、宇宙の頂点に立っているのは自分たちだと考えている。

 信教の自由にしても名ばかりだ。
 天地人の理よりも、自分たちの手で作った法(流儀)の遵守に始終する。
 ‥そこに見られる異常なまでの剣幕は、軍法さながらだ。
 ‥すべてを自分たちの道具としか考えていない。

 まさに、自分たちの自由の勝利を祝わんとした信仰にしかあれていない。
 自分たちの自由を勝ち取る上での信仰‥そこにあるのは自由ではない支配性だ。


> そこを、さぞ人類の叡智だ成果だと見せしめんとして、インチキ資本競争を担ぎ出す。


 ゴージャスで煌びやかさは、ユダ金資本の顔になくてはならない要素の一つになっている。
 ‥人間が一度その有り様にどっぷり浸かろうものなら、あっという間に骨抜きになる。

 簡単に言えば、

 「基本的人権が保障されているから自由に競争が適います‥」などとは不可解な言い分だ。
 言い分を正しいと認めているだけであって、自由競争で勝ち取りましょうとも言っている。
 ‥そこまでを、基本的の意味に引っかけて据えてあるのだ。
 つまり、人権の保障は勝利してこそ得られるとしている。敗者に保障など無いも同然だ。


> 民衆は、その嘘に気がつかずに、選挙でひっくり返せるのだと思い込んでいる。


 財源がなければ何も変わらないのは誰もが知っている。
 その財源とは、投資家が用意するものだと思い込んでいる。
 その投資家とは複数多数から成り立つ合意だと思い込んでいる。
 ‥一方肝心の選挙は良くて真っ二つである。ひっくり返ったとて、

 逆転勢力に以前勢力側からの支援など有ろうはずもない。一体どこから投資があるというのだろう。

 昨日まであった投資は、対抗勢力団体側からの支援投資だったのだ。引き上げられて当然。
 ‥ユダ金資本は、息の掛かった勢力にしか投資しない。そこをまず理解する必要がある。

 公平に味方などしないのだ。それが自由と競争を掲げた側の本音という奴だ。
 ‥世界の資本の多くは1%に偏っている。彼らはユダ金資本の魅力に取り憑かれた愚か者達でもある。
 ‥民衆にしたところで同じだ。多くは、ゴージャスで煌びやかさの魅力の前にイケイケになる程度だ。

 だから

 ユダ金資本の論理は、いつも格差をネタに、格差改善などとうそぶく。
 上と下を常に対峙させて置かないと、いつもお約束の慈悲文句で場を濁すことができない。
 (ユダ金資本の押す民主選挙とは、ツラ看板を換えれば、同じ台詞でも民意が集まるとしか考えない)

 民主革命を勝手に起こさせないように、軍事と経済の繁栄過多による制裁を見せつけてきた。
 そこに渦巻いたのは、孤立と恐怖の演出だった。
 (ユダ金資本が拳を突き上げる正義とは、媚びてこない勢力への制裁だった。それが戦争の本質だ)




1-7)7

> 何をどう並べてみても、日ユ同祖論はお門違いとしか思えない。
> (※ 偽ユダヤと本家ユダヤはそれなりに異なるがここでは考慮せず。混乱視してれば同じこと)


 生命の種の分布図を見たってそうだ。
 種の始まりを祖とすれば、全部同じだ。ならば、生きとし生けるもの皆兄弟だと言うべきが筋になる。
 ‥そこを部分的に似ていたとする痕跡だけを以て、持ち上げる主張を繰り返すのは不可解である。

 分岐した種が、どれ程に近かろうと、
 進化の方向を違えたのだ。それを同祖にあるとは呼ぶまい。
 ‥同じ民族だったなどとはもはや通じないのだ。


> 同祖論などと言い出す事自体がそもそもにして不自然だ。


 部分的に似ていたとするだけなら、後ろから見た時にだってそう言える。
 世界全体がユダ金資本になびいて、その都合上イングリッシュを使うようになりました。
 だから人類の文化発祥の地は米国だッ、否、英国だッ‥などとキチガイも甚だしい説を
 展開しているに過ぎない。

 ‥極端を言えばそうなる。

 それはまた、スパゲティーの文化を見て、あれは中国のそば文化の痕跡だから
 イタリア人は中国人と同じ祖を持っていた!とまじまじと言い放つのと同じだ。

 ‥たまたま財に富んだ異国人がやって来て
 自慢気にも、懐かし気にも、彼の者の故郷再現をしちゃいましたなんてのは珍しくも何ともない。


 日本には、呑気にもそれを受け入れるだけの器があったと言うだけの話だろう。
 そしてさらに、凄かったのは、語り継いじゃう才に富んでいたという話でもある。

 それこそ、墓荒らしに盗賊しか居ないような異国事情からすれば、
 太古の昔から、落としたお財布が戻ってくる奇跡に満ちていたと判断して然るべきことだ。
 ‥そう解釈せざるを得まい。それが日本おもてなしの眺望だ。


> ちまちました歴史的物的証拠なんざ関係ねぇッ
> 民族の暮らしの中に、痕跡としてまたは維持されて来ている方がずっと確かなことだ。


 「流行り廃りで、日本おもてなしは成り立たんのだよ。」
 「流行り廃りでしか看板を維持できない側の世界とは、中身が違うのだよ中身が!」
 「偽ユダヤだろうと本家ユダヤだろうと、日本を一緒にすんな!」

 ‥でもまぁ一歩譲って

 日本だけでも世界が成り立たない部分が、太古からあったのだとする視点は認めよう。
 (日ユ同祖論の中にある秘したる疑問とは、それ以上でもそれ以下でもないのだから)
posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:24 | Comment(0) | 刮目/奴ら絡み | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。