改稿.2015/09/16...20121125...
囲碁を陣取りゲームと思えば、如何に多くの地を奪うかである。(相手の石の連携を絶つ)
そう考えると、囲碁がそのまんま資本競争にも見える。(侵出先の地場の結束を破壊する)
ルールに於いても
囲碁は、勝つ為に、地数を数え、その損得を考慮して手を打たねばならない。
> しかし囲碁には、別の見方もある。
囲碁の実力が伯仲していれば、嫌でも半目差にしのぎを削ることになる。つまり、
囲碁とは、如何に相手と同じ地の数にし合えるかのゲームでもある。(相手の石の連携も考慮する)
‥そのように解釈を変えると、ぐるりと意識を変えざるを得まい。
礼に始まって礼に終われるかどうかだ。
半目差で終えられるかどうかこそが、囲碁の醍醐味とも言えることになる。(よりハードルが高い)
接待囲碁が、「ヒカルの碁」に描かれていたが、素直にすごいと思った。
プロがお客さんを相手に力量を推し量りながら、自分の地数と同じになるように計るのだ。
‥手を抜いていると言えば、手を抜いているわけだが、実力がなければそんな芸当は無理である。
そうであれば、プロのトップクラス同士がしのぎを削り合って、
互いの地の数が同じに至ろうなら、それはそれで美しいのだろう。(強くないから汲み取れん)
実力が違えば差が付いてしまうのは当然だが、
大差で勝とうなどと欲張ろうとする考えが、如何に生意気で傲慢にあるかは、述べるまでもない。
‥囲碁には、そういう見方もあると言うだけの話である。
> 囲碁のそこを人生の様々に置き換えると、実力が伯仲することは美しい‥ということでもある。
‥それはつまり
そのような対局・対戦・対峙を普段から目にする為にも、
互いに大差を望む考えは、ただ単に生意気で未熟にあるだけと心得るべきことになる。
圧倒的な様を見るのも、見せつけられるのも、まぁ悪くはないにせよ
・お互いの持ち味を引き出す
・味わう
・乗り越える(叩き潰す)
‥としたそれぞれの過程にこそ面白さの妙がある。(マンガも同じ)
> そこが成り立つ為にも必要なのは
個の天才でも実力でも努力でもない。それは、全体の場の空気だ。
私たちの側が、社会の空気が、常勝に憧れるだけで一方的な強さを見たいだけなら、
‥プレイヤーの表情からして詰まらない結果をもたらす。
とくにそれは、プレイヤーの心理に影響を与える。(述べるまでもない)
プレイヤーは勝利してこそと誰もがそう思っている。しかしそれだけではない。
‥それだけではないとした空気が、均衡を保った状態にあるかどうかだ。
> それこそが、「礼に始まり礼に終わる」ということである。
プレイヤー同士の実力の伯仲に見せられるばかりでは、とてもそうにはならない。
プレイヤー側のモチベーションがどうあれ、私たちが醸し出す空気にも礼が求められるのである。
‥例えば、賭博はどうだろうか?
あのような場は、誰がどう考えても奪い合う場でしかあれていない。
そのような空気で占められている。(まぁ賭博はああいう世界だ)
‥近年のオリンピックはどうだろうか?
昔以上の尋常ならざるピリピリ感が、映像を通しても伝わってくる程だ。
昔はどちらかと言えば、もう少し楽しもうとの空気があったように思う。
時代の経過と共に、すべてが興行と資本の価値観に偏っている。
会場の作り方にしたって、そんな感じだ。
「礼に始まり礼に終わる」を執り行う為にも、変えてはいけないところを変えてはならない。
‥囲碁を参考にしてみるとよく分かろうものだ。