2013年02月02日

双方向out≦in転換レート方式の論 その1

1-6)0
 基軸通貨の概念は、今や、植民地政策の流れの中に位置した過去形の経済観のままにしかあれていません。
 基軸通貨に国家の強さや象徴を求めても、それは、幻想的な景気演出を押し売るだけの詐欺師のマジックにしかならないのです。
 もはや、そのような詐欺手法による権利の奪い合いを原理と考え、未だにそれの覇権争い(基軸通貨選択)に思いを馳せるのは中毒症状にあると言えるでしょう。

 「GDP一番の国が、基軸通貨を担うべきである‥」
 そんな過去形の言い分を未だに引きずっている意味が分かりません。

> 我々はそこにあった毒に犯されてきたことをよく理解して、新たな枠組みを考えなければならないのです。


※(要点だけを知りたい方は、1-6)5へ‥読み飛ばし下され。そこまで長いっす。)
※(これは、以前の額枠生活禄方式の補正で考えていた内容です。)
※(‥謎かけの解答責任のことをすっかり忘れていました。お詫びします。)
※(これが、年棒型生活禄の場合に当てはまるかどうかは今一つ掴み切れていません。)



1-6)1
 過去の遺物に帰した基軸通貨の理屈でもって、発行の裏付けを考えていると、どうしても何かを国際的にヒット商品に仕立てなければならない縛りに掛かります。
 それが石炭にあろうと石油にあろうと天然ガスにあろうと、それらヒット商品とて、市場の需要以上の供給は適わず、その景気は一時的なものにしかあれません。必ずやマンネリや下火が訪れます。
 否、上向きや下火を演出しなければ、高値で債券を売り、底値で買い戻せないカラクリでした。また、見た目で価格変動を納得させられないわけです。
 国際金融資本は、それらのタイミングを色々と演出し実行してきたのです。
 その時、資金を国際金融資本から借り入れたまま、勢いの矛先を収められずに拡大針路を取っていたのなら、支払いのドミノの渡りを続けられなくなり破綻が訪れます。
 申し上げるまでもなく、すべては罠‥彼らの手のひらの上でした。

 資本主義の口癖である右肩上がりは、各自の生産意欲のモチベーションの一つにはあれても、終始一貫した方針や主張には適しません。
 実際、社是にまで右肩上がりを掲げる経営者は居ないと思います。

 その点、必要な量を輸出し合うだけなら、国際的なヒット商品は必要ありません。暮らしに適した規模と改善が間に合えば、とりあえず十分です。
 せいぜい困るとすれば、積荷がほぼ横ばいで増分しない分だけ、海運業側の運搬コスト面での課題が突き付けられる事ぐらいでしょう。

 それにしたとて、暮らしの中の必要性に順位なんて有り得ません。あるわけがないのです。そこに共生があればこそです。
 もし必要に順位の差があるとするならば‥それこそ生存に欠かせない水とミネラルが一番になるでしょう。それとも空気でしょうか。それとも太陽の光でしょうか。大地でしょうか。それらが一つ欠けたとて糧は育ちません。

 それぞれにある暮らしの必要に順位を付けてまで、商売信用の秤にする真意がわかりません。
 エネルギーとなる燃料を先に用立てたのも、経済の規模拡大を先に行わせ、何かと利権者を多くして賛同者を増やし、経済競争が欠かせないとの植え付けをするための策略です。

 あなたの国の経済活動には、裏付けや安全保障が見込めないから信用できないとする解釈の裏返しが、そもそもの基軸通貨の腹の内です。
 基軸通貨との交換が成り立たなければ、そんな通貨はなんの役にもなりません。
 そこに思想的操作の余地が生じます。交渉国側に有する資本の動きに望ましくない要素を排除したければ、それこそ基軸通貨を王様として位置付けておけば良いだけの話です。
 そのためにも軍事的威勢は欠かせない要素でした。
 これら二つの認知さえ通れば、後々的にどこをどう繁栄させるかは、大口資本家たちの結束した方針で決します。どこに何を投資し続けるかは、{資本の集中}={信用の大きさ}={人とカネのコントロール}になるのですから、今更述べるまでもありません。

 そこにあるのは、発展の自由の主張であって、基本的人権の尊重ではありません。
 むしろ、脅しとしての軍事的威勢が背景に潜んだ発展の自由を、さも当然の空気とばかりに社会の基準に据えてしまえば、格差が生まれるのが流れです。なにしろ、力の差がそのままに繁栄してしまう仕組みだからですから。
 さらに加えて、資本の握り拳を振るうことまでを正論に認めれば、不平等を押しつけるばかりです。そこにある流れは、人権侵害を肯定した態度そのものです。
 そのままでいいわけがありません。

 勿論、活動の良し悪し、能力の良し悪しからの給料の多少は発生するでしょう。その中身のすべてを人権侵害だとまでは誰も論じる所ではありません。
 それにしたとてお互いの必要性に差なんて有り得ないのです。



1-6)2
 現在、世界に生じている経済上の不均衡は、必要を得られずに、生きる上での基本的な何らかの土台を揃える所から始めなければならない大きさの方が、個人が働いて得られる収入よりも大きく上回った仕組みに置かれている事に起因します。

> 生産的初期必要額の月割負担>平均月収
> 創造的豊かさは、暮らしの中に「創造的必要のインフレ」を撒き散らします。


 さらに、創造的豊かさの実現は、実際の必要性がどうあるべきかを差しおいて、大衆から持続可能な生活バランスを逆に取り上げてしまいます。
 早い話が、仕事の細分化が進んだことに因る優先順位の崩壊です。一次産業の存続が成り立っていないのに、そのあとの二次・三次がどうして健全のままにあれましょう。
 それでもどうしたことか、大衆は便利に慣れて久しいのか、細分化した仕事のままの暮らしにしか関心を示そうとしていません。

 その間にも一次産業は衰退を見せ、それはそのままに通貨代替の減少を意味するわけですから、従来有るところに有った運用が成り立たなくなります。
 それゆえに、無いところが急激に増えた結果を切実にさらけ出してしまうのです。それの一番はとくに地方の振興です。

 考えてもご覧なさい。

 一次産業への投資は、その他の産業と比べれば費用対効果が小さいにも関わらず、地主はその土地の土壌や性質を財産と見なしていることから、地主は土地を担保に融資を受けることを嫌がります。買い戻せばその価値が取り戻せるような中身ではないからです。
 ところが、その他の産業の担保は産業に関する資産のすべてが対象であり、多くは最新の設備を揃えれば十分に成り立つ性質も手伝って、より多くの資本を投じてもらった方が好都合の仕組みに置かれます。

 当然の流れとして、投資規模の大きな産業ほどその実価値がインフレに映ります。それが投資家の視点です。申し上げるまでもなく、産業は連携して成り立つわけですから、一つの産業にばかり投資をしても意味がありません。
 そこで、そこに生ずる全体の辻褄合わせを権限のある側が目論めば、一次産業の価値は無駄にデフレに見え始めることになります。
 すると、土地を値上げするか、生産物を値上げするかしないとバランスが取れません。
 前者は土地バブルを巻き起こし、後者は通貨価値を押し下げます。どちらも無理があるため、そこでもっともらしく、一次産業の機械化またはハイテク化が望まれるのです。

 ところが、全体での大量生産能力の創出と余剰は、人口増加を可能たらしめる一方で、逆に雇用人口の必要比の縮小を余儀なくします。
 もちろんそれは産業によって形は様々であり、一概に当てはまるわけではありませんが、単純労働からの解放は、高度な管理能力をそれの代替に求めるのです。

> 雇用枠の縮小傾向と、高度な管理能力の必要性‥まるで戦闘機のエースパイロットの育成のそれと同じです。それでどうして○○ドリームなどと広く一般に喧伝できるのでしょうか。先細りのイス取りゲームに、大衆が望む○○ドリームは当てはまりません。

 その上、企業側に環境対策の必要性を右肩上がりに求めるとなれば、今度は企業側が、生産する上での非生産的足場作りの工面に追い立てられるのです。
 であればどうしたって‥売上げから得られる収益よりも、そちらの負担の方が大きく上回った仕組みに置かれるばかりでしょう。
 さらには、借りた物を返すための産業効果(想定された景気期待)が、どれほどに長続きするのかも疑わしい限りです。競争をしているわけですから、一つの投資と商品・サービスから稼げる期間と時期にも制限が有るわけです。

> 生産的初期費用の負担増大>売上げから得られる収益(返済能力)
> これは技術革新が進めば進むほどに、「基礎レベルの生産力余剰とハイテク化のインフレ&再投資の必要」を撒き散らします。


 技術革新とサービスの向上により、創造性と生産性のインフレを成し得ても、それを担うための消費も雇用も定着・増大させる術がない‥このどうしようもないアンバランスは、人口のさらなる増加によりさらに拍車が掛かります。つまりデフレです。
 商売をするなら、人口過疎地帯より過密地帯だと思っていても、実のところ全体で見ればそれは錯覚だったとの落ちが、そこに隠れて潜むばかりのままに置かれているのです。

 ‥現実を正確に見るならば、人口が増えても、技術とサービスが向上しても、先んじた経済景気には結びつかないのが従来経済(国際金融資本のやり方)の欠陥(限界)としてあるのです。
 なぜならば、消費する側に一切の無償供給がされていないからです。無償供給しては貸す意味が無い‥まぁそれが金貸しの判断です。権利商売であればそうなります。
 問題なのは、人民にその権利の所在の確認を一切問わずに、いつの間にかそれを踏襲させてきた点です。そして行き詰まった事を認めていません。



1-6)3
> また、どれだけ足りないのかを論ずるならば、次のような解釈が織り込まれていなければ用を為しません。


 中国やインドのように人口が多ければ、その国の通貨供給は従来の先進国規模よりも、大幅な資本拡大が求められて当然です。
 ところが、先進国の優位性または基軸通貨の辻褄を維持しながらそれを成そうとすれば、無理に為替の都合を押しつけて、貨幣価値を下げたところから始めなければなりません。
 ゆえに、先進国通貨に比べて、人口大国の発行価値はずっと低い扱いに置かれます。

 そのように、発行量を調整するしかないのが基軸通貨を基準とした解釈になります。

 これは先進国の経済的人権と、新興国の経済的人権が平等に扱われていない事を意味します。
 その代わり、新興国側は、先進国が築き上げてきた技術を始めから活用することが可能です。(※ただし、まるっきり無償ではありません。)また、通貨安により輸出景気のもたらす恩恵を受けることが可能です。
 その意味で言えば、国際間に有すべき経済的平等は、試み次第のうんちくで成り立ってきたと言えそうです‥(国と国との取引‥勿論具体的な内容に関しては未公開を含む。)


 しかしながら、人口が多ければ多い程に、国内での豊かさの平均は、従来の先進国と比べて、それほどに上昇しないのが経済競争上の弊害として起こります。
 なぜなら、上手に稼ぐ人の手元から順番にお金の流れが滞るからです。それでいて、新興国の勝ち組の手にする売上げは先進諸国と同等の勢いを有します。
 そこに生ずる刹那は、問答無用で先進国側の通貨すら吸収し始めるのです。
 結果、グローバルな規模で、通貨デフレを連鎖してしまいます。
 であれば、新興国が先進国並みに努力を重ねたとて、人口が多い分だけ、経済規模が連結して拡大する分だけ、豊かさの格差は全体で横ばいのままを維持するばかりでしょう。
 それがグローバル化の結果であり、世界経済が横ばい傾向に置かれる理由です。

 また、新興国経済の豊かさは、先進国からの技術導入により、細かい社会変化の問題点をよく考えさせずに一部を飛ばしてしまうことから、成長ばかりが印象的に刻まれるばかりで、それらに対処する上での安全理解を得ずにことが進みます。
 でありながら、浮き彫りになったインフラ等の安全対策の充実を図るには、発行するしかありません。もしくは借款です。先進国ですら同じ立場から逃れることはできてはいないのです。

> であれば、一体全体どこから借金でないお金を調達しているというのでしょうか?

 ‥そこをどうにか補い、誤魔化してきたのが信用創造でした。
 それと、海外との交易による収支です。(関税など‥)

 急激に豊かさの幅が広がれば、人々の間に生活の情報が多くなり、生活必需品が増え、それの豊かさに人々が魅了されて、景気をさらに呼ぶわけですが、その多くが互いの組むローンが原動力にある事を、多くの人は理解しておりません。
 つまり、誰かが借りるから、誰かの預金に振り込まれるのです。そして誰かが返済することにより、金利を追加して銀行に戻って行きます。
 銀行が易きに貸し出さなくなれば、市場の通貨流通量が激減してしまい不景気到来です。この簡単な原理を教え諭す事なく、資本主義は世界に輸出されて広まったのです。

> 始めの通貨供給は国家信用からなる借款か国債のどちらかです。その次の通貨供給は、国民のローンによる信用創造から生じます。借款はやや性格を異にしますが、後の二つはいたって創造資本からなる貸付です。つまりはだかの王様です。

 これらは見た目上、景気を演出させることはできますが、誰かに貸し続けなければ途端に供給不良に陥る欠点を抱えたままです。
 もちろん、貸し手が元本の回収をあきらめて、金利の利率を維持したままに、元金の縮小を認めるというのなら、破綻を抑えることも程度可能かも知れません。
 実際、それの形を有しているのが公開株式を始めとした債券市場ということになりますが、一般的な個人のローン枠にはなんら関係の無い話です。
 そもそもにおいて、今や個人の返済は、投資家の金利分同然に置かれるからです。


 世の中のインフラ整備が進むと、仕事の多様化細分化が促されます。その結果、稼ぎがどうのこうの以前から、暮らしに必要とされる初歩的な金額がかさむ方向に進みます。
 中には、今までコストが掛からないで済んでいた何かが、有料になったりします。その反対ももちろんありますが、それらは決まって雇用や効率の兼ね合いで引き起こされます。
 さらに右肩上がり経済の価値観に取り憑かれれば、どこもかしこも効率を求めて、給与UPを目前にして、コスト削減、人員カットを繰り返します。

 それの資本競争の結果、豊かさの多様性は拡大しているのに、豊かさの享受は一向に横ばいのままに据えおかれます。それはさしずめ、4:6の割合を維持します。
 それで選挙をすれば、必ず富裕層支持の側が負けるはずですがそうは成りません。
 それは、無効投票が2割程度を維持するからです。景気が良ければ、5:3で富裕層支持の側が圧勝です。不景気ともなれば、4:4で常に接戦です。
 民主選挙といっても実はこんな程度です。ほどよく操作されるのです。

 ちなみに、日本の場合は、無効投票が4割近くになりますから、景気が良ければ、4:2です。景気が悪ければ、3:3です。それが通例のようです。
 なぜ日本だけが投票率6割程度と低いのかは、単一民族に置かれている危機感の少なさが一番に影響しているように思われます。


 技術確立には無駄に多くの投資が求められます。技術の確立までに必要なお金を投じれば、嫌でもお金が市場に溢れることになりますが‥それはまた、返さなければならない資本量でもあります。
 つまり、返すまでの間に誰かに蓄えられることで、返済する上での売上げ期待は、蓄えた側の好奇心に左右されます。また、相乗効果を期待した全体景気を見越した投資にしても、蓄えた側の琴線に触れなければ、市場はデフレ状態のままに据え置かれ、経済のエンジンは掛かりません。
 それでは、いつまで経っても投資の回収は果たせません。
 否、むしろそのような結果ともなれば、技術開発や効率を求めるよりは、古来からの手法のままに手間と人員を動員したとしても、投資規模に差はないのかも知れません。
 どちらかと言えば、古来からの手法のままの方が、より多くの人に仕事が渡りますし、多くの人が手掛けることで、誇りの共有が得られるわけですから、末長く大事に扱う意識が育まれます。
 この「誇り」への意識共有を投資に織り込めば、訳の分からない競争による技術開発ばかりを叫んでみても、片手落ちだったように思われます。

 しかし資本主義の口はそれを認めません。長い目で見れば、新しい技術や何かを獲得してしまった方が、お得と考えるからです。そして、資本主義の口は、民衆が何かを成した誇りへの意識共有よりも、権利が誰の手にあるのかに関心が高いのです。

 そもそも企業の進める技術開発は、どのような暮らしがしたいのかに事前提案もコストも支持率も示さずに、勝手な競争を前提にしたアイデア争い・実力行使が主流です。
 勿論、それに賛同する投資家たちが居てこそ成り立つわけですから、まったくの企業の勝手というわけでもありません。それにしても、それらは銀行や投資家たちの理解の範疇であって、住民理解・人民理解を得て行われるとは限りません。
 たとえそれが合法であってもです。
 そして今や、独自に進めようとしてきたやり方は、旧時代のエリートの特権とばかりに勘違いしてきた経緯も手伝って、改善を余儀なくされています。

> まず全体で理解し合うには、教養の共有が欠かせません。
> 否、それを豊かさゆえの共有と言い換えても良いでしょう。

 経済の循環と暮らしの創造を両立していくためにも、特定レベルの豊かさの共有とそれを少し上回った知識教育・実務体験の修得は欠かせません。

 そしてそれを実現するためにもまず、教育を修得し合う上での莫大な時間と教師と資金が必要です。
 否、その教育費を稼ぐための仕事の創出が果たされることが先に求められます。
 同時に、それら創出実現する上での諸作業の理解を身に付ける教育がまた欠かせません。

> 実際の所、それは{教育の習熟度}={豊かさの獲得度合い}になってきます。
> つまり、始めから持たざる者が多い社会では、行き詰まり感の方が先行するのです。

 それでいて、仕事に就くための条件に経験者のみが付けば、知育よりも実務経験がものを言いはじめます。
 それにしたとて、そこに求められる実務経験は、多くが仕事に就けなければ、その数が増えることは絶対に有り得ません。
 安易に海外から引っ張ってくれば良しと考えても、所詮は仕事の奪い合いであり、海外からの出稼ぎ労働者がきちんと就業国に定着するかどうかはまた別の話です。定着したらしたでまた民族的な問題が起こり、しなければしないで産業の空洞化は否めません。

 そこを表現すれば、「民族の誇りのみ有りて、地場に生くるる術(すべ)身に付かず」になります。

 単にDNAが似通っているから同じ民族である事を主張するのか、共に手を取り合う隣人同士を同じ民族として定義するのか、実に危うい橋を渡らんとするばかりでしょう。
 つまり、慢性的な人材不足を了解した上でこの先も国際間の経済競争を論ずることと、従来のままの競争型社会を改善させることなく国際金融資本のはだかの王様に付き合うことは、民族の概念を曖昧にし、国民主権を曖昧にするのみです。

 これは暗に国際金融資本の担って来た国債システムを廃止して、政府通貨に切り換えれば済むという問題ではありません。
 政府通貨を自由とした財源確保だけで物事のすべてが成り立つのなら、格差社会からは脱せません。そこに残ったままにされかねない資本経済の維持で十分だとすれば、国から融資を得た側に有利です。
 そんな国からの融資を返す必要があるのかどうかはさておき、それ自体が創造からの融資だとの中身でしか無いのですから、何を持って公平とすべきかです。
 そこには、もはや従来の資本競争のままにはあれない性質があるのです。
 そこには様々な改善が求められる事になるはずです。撤去もあれば、新設もあるでしょう。制度にしろ都市計画にしろ教育にしろ、それらの金額も合わせて何とかしなければなりません。

> 実際、必要とされるべき土台の金額は、これらすべての改善費用を含みます。


 その上で、さらに医療が求められるのです。
 医療の技術を確立するには、無駄に珍奇な事情を抱えた患者が求められ、医師の技術レベルを維持しようとすれば、これまた無駄なぐらいの社会保障とわがままなぐらいの食生活の乱れが必要です。事故や怪我も無駄に欲するばかりです。
 どちらかと言えば、国民が無駄にモルモット役を引き受けるような形を選ぶよりは、国民全員に最新医療知識のすべてを叩き込んだ方が、ずっと近道にあるように思えます。

 であれば、いくら皮算用をしてみても足りていないのが現実です。



1-6)4
> はっきりと申し上げます。

 お金を均一にバラまけばデフレはそれなりに解消します。その概念はベーシックインカムと呼ばれ、18世紀末頃から唱えられてきた考え方です。
 しかしながら、その次の改善課題として悩ましく立ちはだかっていたのが、どうすれば平和的にお金を無理なく腐らす事ができるかです。消せるかです。権利の放棄が成り立つかです。
 ‥それを実現させる方法が、実はコロンブスの卵のような内容だったのです。


> 始めにはっきりさせておくべき事柄が二つあります。

・ 一つは通貨発行権は国家国民の権利である事です。
・ もう一つは、通貨のレート決定権もまた同じように国家国民の権利である事です。

 なぜなら、そこに主権の主権たる活動の源泉があるからです。国家国民がお財布を握られていたのでは、主権を主張することは適いません。主権を有すべきは国家国民です。決して国際金融資本でも投資家でもありません。
 そして、基本的人権を保障する上での国家国民の責務とは、発行権とレート決定権に見合った国家民族としての存続を長きに渡り担う事です。
 通貨を基準にした見方に違和感は募るでしょうが、存続の保障は誰かがしてくれるわけではありません。外国からの協定協力は得られても、最終的な内々の自立は国民の手で成されなければなりません。通貨は、民族活力の代替としての道具に過ぎません。

 国際金融資本の歴史的な台頭は、あまりにも外からの力と豊かさを安易に求めすぎた結果が招いた失態です。
 そこには、民衆が国家に任せきりだった期待と責任の押し付けがありました。
 保障は誰もしてくれません。自分たちで担うべき課題です。そこに民立の思想があります。そのための一歩が、発行権でありレート決定権の認知です。
 それを教え示したのは、何はともあれ、国際金融資本のヒトを人と思わざる計画の成れの果てにあります。

 そこはさておき、お互いの国家がお互いの発行権とレート決定権を成り立たせるにしても、結局のところは取引です。


 そして、もはや世界は、国際金融資本の急進性ゆえに、交易せずには成り立たない構図に置かれてしまっており、その無責任の中で行き詰まっております。
 その原因の一つは、通貨の価値基準の据え方に納得のできる論理がない事です。
 どこの国でも交易で、自国国家の弱味を突っつかれたくないと思えば、それへの対策として、自給自足の精神を基本に掲げる所でしょう。
 しかしそこを充実させたくとも、鎖国のように閉じた経済圏でいるというわけには行きません。自国だけが通貨発行量を勝手に自由にしてみたところで、それで必ずしも健全な経済効果を期待できる状況にはないのです。
 また、全体で勝手に発行することを了承したとしても、バランスを欠くばかりでしょう。
 そもそもにして、交換交渉の何かを、持たざる国家に対して、誰しもはレート決定権での優位性主張を認めるところがありません。必ず何らかの実的な取引を望むのです。
 まるで、通貨には価値が無いかのように‥
 それでは、お金自体の価値をお互いが否定し合うようなものです。

> その否定がそのままに、マクロ構図にて、人権の否定に結びついていることを理解し合わないのでは、民主国家とは一体全体何を決めるための思想なのでしょうか?
> 糧を得るための土地を分け与えることを社会主義的と罵り、また給付するだけにあれば勤労怠慢になるとして忌み嫌い、持てる者と持たざる者の間にある溝を埋めるための交渉を一切拒否するばかりのどこに、民主的と言える姿があるというのでしょうか?

 断りをする権限を有していれば民主的なのでしょうか?

 民主主義とは、ともに手を取り合う上での合議であり、単に個人的な主張の優勢を決するための仕組みにとどまるべき精神ではないはずです。



1-6)5
> それでは、『双方向out≦in転換レート方式』の輪郭をご紹介致しましょう。
(※≦‥小なりイコールと読む。)

・ 双方向とは、お互いがレートを主張できる形を保つの意味です。
・ out≦inとは、outは輸出債権の金額で、inは輸入債務の金額を表します。
・ 転換とは、お互いに発行権を行使できる立場にあれば、交易上の支払いをお互いの通貨価値に転換しようと、あとから双方で発行量を調節しようと同じである事を意味します。
・ その転換に必要なルールとして、公正に、双方向にて支払い(in)のレートもしくは売上げ(out)のレートを持つとする方式が「双方向out≦in転換レート方式」なのです。(※以下「out≦in方式」と略す。)


 世界経済はもはやグローバル構造に置かれているわけですから、交易は欠かせません。
 一方で、通貨供給を上手にこなせなければ、公平な物資の分配もままなりません。その補足が生活禄の考えです。
 しかし、生活禄をもって通貨供給に公平性と合理性を得たとしても、それの効果によりどこもかしこもお金であふれかえります。それは、いずれは通貨の価値を押し下げます。
 膨らんだ発行分をどこかで解消しなければならないのであれば、交易の自国通貨高不利(輸出不利)&自国の通貨安不利(輸入不利)をもって同時相殺し、減らしてしまおうというのが、out≦in方式の原理です。

> そこで通貨の転換を考えました。
> 転換であれば、同時相殺が成り立ちます。

 通貨自体の転換は、交換や両替などせずとも、支払い自体を一つの価値として自立させます。実体価値と支払い価値との交換が成り立てば良いわけですから、それにさらに、通貨(支払い価値)と通貨(支払い価値)の交換を求めれば、かえって蛇足になるだけです。

 なぜ、このような解釈がされてこなかったと言えば、基軸通貨の覇権争いに縛られていたからです。
 金融のカラクリを初めに考えた者が、自分達側に有利に事を運ぶための自由を主張したからです。その言い分を多くの者たちもまた成り上がる上での必然と考えました。
 そこにあったカラクリが次第にスタンダードとして認知され、トリックを抱えたままに学問に至り、平気な顔でまかり通るようになりました。
 はだかの王様なのに‥否、恐怖の独裁者なのに‥否、不誠実な管理人たちのどす黒い腸にひれ伏した形が、そこに生じてきたのです。

 通貨転換は、お互いの発行権の保有認知とレート決定権の保有認知が前提です。
 ここにおいて、すべての通貨は基軸通貨であり、被基軸通貨でもあるのです。
 であれば、特定の基軸通貨や外貨を必要とせずに、お互いの自国通貨を基軸通貨として運用することを了承し合う形が生ずるのです。
 勿論、その裏付けとして、自国内における内需成長が欠かせません。もしくは有意義な資源発掘です。


 海外との交易により自国資本が流出してしまう欠点をお互いが嫌えばこそ、始めからすべての通貨に対して、通貨高不利と通貨安不利をを設けてしまえばいいわけです。
 簡単に述べれば、OUT99:in101です。それを双方で請け負うだけで、双方の支払いは割高であり、双方の受け取り分は割損です。
 それだけのことで余分と思える発行分が消えてしまうのであれば、その分だけ再発行が可能になります。
 一見、交易不利に見えますが、従来の外国為替のままに伴う混沌、国債発行うんぬんから生じる消費税高→不景気→消費経済が回らないようなデフレ・スパイラル等を顧みれば、すべての国で創造発行&交易不利を演じてしまうのも一興です。

 生活禄を国内経済の潤滑油とし、膨れあがる通貨供給を減らすために交易を図る。
 必然的に国内経済だけである程度回るようなら、交易のメリットは薄くなります。それゆえに外から入ってくる物が高くても当たり前とする認知も通るでしょう。
 それでも、そのままの高値で相手国側の丸儲けなってしまうようでは交易上の国際間調整は働きません。そこで輸出側の取り分を削る意味でもout≦in方式というわけです。

 その結果、必要な交易に伴う通貨転換の過程を得るだけで、通貨バランスを保てるのであれば、あとは、増える分と減る分を巧く調節するだけです。
 であれば、どこの国でも経済成長率を適当なレベルに誘導することが適うでしょう。

 ただしこの時、inの方を常にOUTより大きく保つことが重要です。
 その逆をしてしまえば、あっという間に転換のみの所作に乗じた発行が増えるだけに陥ります。それでは健全な経済活動は育めません。



1-6)6
 しかし、いくら双方にレートが持てるとしても、それが一つずつでしかないのでは、まだまだ不十分です。
 そこでout≦in方式の応用が欠かせません。

 例えば、基本レートの他に、資源レート、加工組み立て工業品目レート、完成品工業品目レート、穀物レート、新鮮食品レート、加工食品レート、知的所有権レート、美術品目レート‥などなど、細かく銘打って互いの国家間のレートを決めて行けばどうでしょう?
 得意分野では儲かるように自らの分を通す一方で、不得意な分野では相手に分を譲れるようにできます。
 必要であればさらに細かく、特定品目だけのレートを設けても良いと思います。

> であれば、関税に変わりうる新たな経済協定枠に成り得るでしょう。

 レートと言っても、これらは商品相場のレートではありません。通貨転換をする段階で対象品目ごとにレートを設けることで、基本レートだけで為されてしまう一律的な転換レートに伴う不均衡を改善しておく主旨を有します。
【双方向out≦in転換レート方式の論の最新記事】
posted by 木田舎滝ゆる里 at 06:43 | Comment(0) | 双方向out≦in転換レート方式の論 | 更新情報をチェックする
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