改稿.2015/09/17...20130210...
曾て、ブルース・リーは言った。
> “Don't think.FEEL!!! It is like a finger pointing away to the moon.”
> 「考えるな、感じるんだ!!‥それは月を指さすようなものだ。」
‥ならば、著生も続くとしよう。
喰らい尽くすは、即ち、何も与えずに等しき行為である。ゆえに、
喰らい尽さんと欲した行為は、
即ち、すべてが手に入るように見えて、実は何も身に付かない結果を自らにもたらす。
> 欲張るな、空(から)になれ!
> 学び切ろうとするな、信ずるところをやり通せ!
> 近づこうとするな、向こうからやって来る
そうして、すべては丸く育まれん。
‥ただし、用の無き所に風は吹かん。
「お前は風か?」
腹一杯になっちまった風ほど役に立たぬモノはない。
我々はそれを「無」と呼ぶ。
為す必要がないから風は吹かん。
それが自然にあると思えぬのなら、お前がそれを勝手に成さんとしているだけのこと。
用の無きところに風は吹かん。努力努力と吹き続ける必要なんぞそもそもにして在らず。
風が必要だと思うなら、まずは止むるべき時分をわきまえよ。
ならば、吹くべき時分も同時に定まろう。然りして無為自然なり。
> 始めようとするな、まずは終えよ
一つを終えておらぬのに、次は始められぬ。
一つとして終えておらぬ者に、次など努まるわけがない。
さすれば、無為自然である。
終わりを知らぬ者に始まりは見つけられぬ。
始まりを見つけた時、同時に終わりを理解した者は幸いである。
道とは、始まりと終わりをただ貫いているだけなのこと。
あとはその道を進めば良し。されど進む必要もまた無し。
道はどこにでもある。道は様々だ。そして、私たちは一つの道しか選べない。
同時にいくつもの道を行こうとすれば、必ずや迷うだろう。其は風に非ず嵐なり。
ただでさえ、一つの物事をきちんとした形で終えられぬ者らに、
「どうして、人の世の身勝手な資本の嵐をやり遂げられると言うのだろうか?」
嵐が鎮まる時はそれこそ死なり。死ぬるのみ。
死ぬに道なし。殺(あや)めるなかれ生かせよ。生かして渡りきるが道なり。
> 武士道の道とは、主君の道なり
主君が家臣に死ぬるように事を強いれば、自らを殺める危機を招くだけの事。
又、他を生かして自らを失っても良いなどと何の意味があろう‥
「どこに挑戦があろうか?」
己の信じた道を突き進み、そこに死が訪れんのならそれこそが本物だ。
生き死にの境を踏んでそこにあったなら尚更である。(其は必ずしも勝つことに非ず)
生き死にの境を踏んでおる者、即ち、始まりと終わりの筋道を踏んでおる者、
即ち無為自然として道を行く者なり。
風なんぞ無理に自ら吹かせんでもよろし。乗れば良きこと。乗る必要もまた無し。
「降り方を知らぬのに、乗る馬鹿とは何ぞ?」
「風を乗り切る力もないのに、煽られるままに乗ってどうする?」
‥降りられる場所とて、そうそういくつもあるわけでもあるまい。
乗る場所もまた、そうそうにあるわけではない、故に‥人は迷いだす。
‥ならば姑息に為らぬように自らを磨かねば為るまい。
道はいくつもある。風なんぞいくらでも吹こう。
されど、行ける道は一つなり。そこに目が向かずに疎かな者に風なんぞ吹くわけがない。
> 「風を求めるな、道の先を見よ!!‥それは路端に厠を欲するようなものだ。」