2015年09月20日

【刮目】白湯(さゆ)の心得

1-5)改稿.2015/09/20...20130218...

> モノが売れなくなる理由の説明には、缶ジュースが最適だろう。


 缶ジュースは、どんなに色取見取に並べられていても、
 その中のお気に入りの一本に飽きてしまうと、途端に全商品の魅力までが色褪せる。
 ‥この現象は、失恋のそれとなんら変わらない。

 恋愛気分にも誘われてモテモテ感が漂うと、なぜか、色取見取にも同時に複数を好きになる。
 それでもお気に入りは、多くても2〜3程度だろう。
 ‥で、その中の本命と決裂しようなら、途端にすべてが色褪せて見えるのだ。

 缶ジュースの場合は、細胞レベルな要求に左右される点は外せないにしても
 毎日飲み続けることの選択支ゆえに、自ずと「水」に辿り着く。
 ‥それでも水は売られているのに、白湯(さゆ)は売られていない。

 「それはなぜだろう?」



1-5)1

 水は売られているのに、白湯(さゆ)は商品としてお目見えしていない。
 敢えて言えば、コンビニでカップ麺を買うとサービスで付いてくる。
 ‥それ程に、白湯には価値が無いと思い込んだ文化が背景にある。

 「なぜ白湯に価値が無いと思うのか?」

 身体が水を欲するのであれば、白湯でも良いはずだ。
 冬場ならそうあってもおかしくない。
 ‥なのに誰も白湯を欲しいとは進んで口にしない。

 「それはなぜか?」

 寒い時に好まれるのはもっぱらお茶系だ。
 寒いからエネルギー消費が高くなる。冷たいより温かいだ。
 ならば、夏に水だったなら、冬は白湯でもかまわないはずだ。
 ‥だが、誰も白湯を家でさえ飲もうとはしない。人によってはカップ麺用にしかあれていない。

 お気に入りの一本に飽きてしまっても、冬になればお茶を飲む。
 夏は水で、冬はお茶だ。

 「なぜ白湯ではないのか?」
 「それは本当に身体の要求に叶っているのか?」


> 心理的なことを言えば、概ね「貧乏くさい」だ。


 夏に水に対してそれを感じないのに、冬になると途端にそれを持ち出す。
 ‥どうしたってそれは不可解な見方だ。

 商品的な事情を考えれば、白湯にニオイが付きやすい印象も手伝ってのことかも知れない。
 しかしそれにしたって、家で飲む分にはそんな理屈は通らない。
 価格にしたって、水もお茶もあまり変わらない。

 ‥だから、せっかく頂くなら「温かいお茶」ということになる。白湯の選択支など眼中に無い。


> 茶の類を一切絶って、白湯に切り換えると、


 カフェイン効果が無いがゆえに、最初の内は無駄に眠くなり易い発見をする。
 不眠症で困っているなら、試してみる価値はありそうだ。

 寝る子は育つと言うが、最近のお子様は眠りに対する意識がどこかに飛んでいる。
 そこにカフェインが絡んでいるとすれば、幼児にお茶の類を与えすぎるのはよろしくない。

 ‥妊娠中からして
 注意を払わずにお茶の類を口にすれば、胎内で胎児が目を覚ましているという見方も出来る。
 それが胎児の細胞形成になんらかの影響を及ぼしている可能性について誰も答えられる口を持たない。

 しかし、眠った方が回復は早いのだから、胎児だって眠りの時間が多いに越したことはないはずだ。
 ‥胎内記憶があるとかないとか、才能なんかでは無くそれの影響があるだけかもしれない。

 何よりも私たちは、胎児がどれぐらいの周期で寝起きしているかの情報を知らない。
 ‥ましてカフェインの影響で、その周期にどのような変化がもたらされるかなんて知らないのだ。



1-5)2

> 話を戻そう


 白湯に価値が無いから商品にならない。
 水は飲むのに白湯はイヤ‥このおかしさの根っこは、やはり貧乏くさいというただそれだけだ。

 ‥なまじ白湯の味に満足することを覚えないから、無駄に味付けが濃くなる。

 結果、健康を害する食味しか身に付かない。
 白湯で十分なら、味付けだって薄口でも行けるだろう。
 それは別に貧乏くさいとかではない。健康に長生きする上での要素だ。

 日本の清水文化と世界の水環境を考えてみても、そこは明らかとしてある。

 日本は、軟水だったから井戸水をゴクゴクやっていた。
 世界の硬水の事情は複雑で、もっぱらビールやワインを飲んでいた。
 つまり、世界は古くから味付けがあってこその環境だった。日常だった。
 ‥今だってその辺りの味覚の違いは、随分と際立ったままだ。


> 恋愛でも同じことが言える


 味付けの濃いロマンスばかりを見聞きすれば、そりゃ濃厚を熱望することにもなるだろう。
 それはどうしたって、目線を上に向けざるを得ない。
 目線は前を向くべきなのに、居もしないバーチャルな上の空を漂い彷徨うのだ。
 ‥色取見取のリアルの選択肢の中にお気に入りが居なければますますそうなる。そして飽きるのだ。


> 飽き方には二つある


 ・好きな何かを熱烈にも、一気に味わい尽くして飽きるパターン。
 ・少しずつ味わいながらもだんだんとその代わり映えの無さに愛想を尽かすパターン。

 前者は性格だから仕方ないのかも知れないが、後者の事情は少し違う。
 周りや時間経過からの比較によるいらだちや違和感がそこに反映する。
 ‥そんな事情から、おいしさを感じられなくなる心理は数多に存在する。

 ここを

 商品価値で言うならば、新商品の回転させすぎに因る本命選択支の消失が挙げられる。
 恋愛で言えば、多くへの過ぎたる好奇心から、足元との距離が肥大した生活観消失が挙げられる。

 ‥グローバル寄りの世界観の拡大は
 選択支の基盤である元の生活スタイルの変貌を余儀なくされ、足元をベースにできなくなる。
 それこそが、素の自分が端に追いやられていくようなうんざり感に繋がるのだ。


> 理想とのギャップが著しくなれば、選択自体への拒絶感もまた肥大化させることになる。


 拒絶感が肥大化すると、最終的にはリセットが起こる。
 飲み物で言えば水だ。シンプルに水を求めるようになる。



1-5)3

> では、白湯とはなんだろう?


 例えば、お茶やコーヒーの入れ方のうんちくを挙げてみよう。

 茶道であれば、宗派や先生ごとにうんちくの差がある。
 それのすべてを見きわめる必要は無いにしても、一通りの作法を身に付ける必要はある。
 ‥あとは自分次第だ。

 茶道の中にお茶の生産にまでツッコンだうんちくはほとんど無い。
 どちらかと言えば、味がどうのこうのよりも、心得だったり所作にそれの趣がある。
 ‥しかしコーヒーの場合は異なる。

 コーヒーは、どんなに豆を熟知して煎り方や入れ方に思考を凝らしても、結局は豆なのだ。
 結果、生産プラントの知識にまで及ぶ。最終的には、豆の栽培に適した気候に辿り着く。
 ‥それは、茶葉の刈り入れから発酵までの過程で盛り返す手立てがまったく無いかのようだ。

 ここを恋愛で言えば

 「この場所でしか生きられない‥それが私です」とのうんちくになるのだろう。
 自分はその土地に移り住む気など眼中に無いのに、相手にこちらのそれを強要するのだ。
 ‥なんとふてぶてしい態度にあろうか。
 ‥なにやらそこにある言い分は、奪い取る関わりを恋愛と呼ぶに等しい。


> つまり、ここでの白湯とは、空っぽ程のもてなしを意味する


 千利休でさえ、その視点には気が付かなかったのだろう。
 ‥茶道に白湯を出すことだけは有り得ない。そういう思い込みだ。

 しかし、もてなしと質素を口にして来た者なら、いずれそこに至っただろう。
 ‥それが白湯の視界か。

 惜しむらくは、秀吉により死期が早まったせいもあるかも知れない。
 利休とて、もう少し生きながらえていれば、いずれはそこに至ったかも知れない。
 老いて病み‥ようやくにして白湯を発見したとかなんとか。


> リセットできて、人と人は漸くにして対等になれる。そんな極意。


 積み重ねがどうのとか、努力がどうのとか、才能がどうのとか、年齢がどうのとか、
 そんなものは皆、そのリセットする一点に於いてのみ対等だ。
 ‥リセットできないなら、それは、ただの理想にしかない。とんだ勘違いだ。

 どんなにうんちくを身に付けようと、それは一向に構わない。

 しかし、うんちくを外したところの自分を見失っていては、素に戻ることはできない。
 ‥素に戻れない同士の混ざり合いなど高が知れていよう。


> 結論


 「白湯に見るべきは、自身の価値観のリセットなり」
 「白湯を飲む時、そこには、省みがもたらされるだろう」
 「貧乏くさいに非ず、そこに対等への誘い有り」



1-5)4

> コーヒー豆の最高級品は、特定のジャコウネコが食べた糞の中の豆が一番だという。


 それならそれで、豆を適度に発酵させる製法の確立を考えても良さそうだ。
 一部で人工発酵豆を扱っているようだが、それほどに普及する段階には無いそうだ。
 ‥ならば、コーヒー豆とて、もっと適した発酵方法を考えれば良い。

 ジャコウネコの腸内をくまなく調べて発酵菌を探して
 発酵工程を再現すれば良い話になるが、どうもそれだけでもなさそうな話がある。
 なんでも、ゾウに食べさせた豆を回収するなんてやり方もあるという。
 ‥どちらにしても量産化できれば、世界中の豆が最高級に化けるだろう。


> そして気付くだろう


 糞の価値に。そこに抱いていた偏見の数々に。
 すべての生き物の腸内の可能性に。そこに新たなるフロンティアを見いだすのだ。

 そもそもにして、葉茶の類は発酵が前提だ。

 コーヒー豆だってそれに習うべきだった。
 発酵過程を得ないコーヒー豆はコーヒー豆に値せず‥なんて時代がやって来てもおかしくない。

 ‥このように

 対等への兆しが、新たなる扉を開くだろう。
 そこには、常に、価値観のリセットが始まりに起こるのだ。



1-5)5

> 水は、白湯にして飲むよりも、冷たい形で飲んだ方が味わい深い。


 そこで、水にレモンの香りを加えて楽しむなんて飲み方にもなる。
 ならばそこから転じて白湯を見直そうとすれば、
 白湯にも香りを付けようなどとした考えも出てくるかもしれない。

 しかしそこで振り返るべきである。

 「そのニオイはどこから来たのか?」
 「天然か?」「人工か?」「化学成分だらけの怪しい調合か?」
 「それを海にドボドボ捨てても大丈夫と言い切れるのか?」
 「海の生態系に影響を与えないと言い切れるのか?」

 水を飲むのに香り付けを楽しむ文化はあるにせよ主流ではない。
 白湯とてその範疇にしか及ぶまい。否、それ以下だろう。
 ‥白湯に香りを付けて飲むぐらいなら、お茶を楽しめば良いだけだ。


 酸素缶を売るのにさえ、無駄に香りを付けて売っている。
 ‥それもこれも売るための無駄な労力だ。


> 美味い水と美味い空気。そこに余計なニオイは不用だ。


 現代日本人は、いつの間にか、飾らないとした姿・物の在り方への価値を見失っている。

 それも是も、資本経済からの受け売りの如しの体たらくにある。
 ‥そこにある理屈づけが、素に還ることを阻むのだ。

 どうしてそんなにもベタベタと着飾る方向のままに留まろうとするのだろうか‥

 たまには原点に戻ってきて、空っぽになって過ごしてみれば良い。
 それは価値観をリセットすることだ。私を空しくして漂わせるだけで良い。
 ‥それは、周りとの距離を適切に保つ上でも大切な所作だ。


> もう一度言っておこう


 「貧乏くさいに非ず、そこに対等への誘い有り」‥是、即ち、白湯の心得なり。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:59 | Comment(0) | 刮目 | 更新情報をチェックする
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