2013年04月09日

【日記】電子出版始めるなら、やはりパブーか‥

1-6)0
 出版社はタバコ臭いから付き合えない。著生にはそういうあたましかない。
 だから電子出版には無駄に興味がある。パブーにも興味が湧いていた。
 でも様子見だった。

 {自分:パブー=7:3}の取り分率は、さすがにインパクトがあったらしく、もはやこの流れは変わりそうにない。

> じゃ、パブーに乗っかってみる方向で検討せざるを得まい。



1-6)1
 まずパブーでは、無料と有料の閲覧の区別を著者自身が用意できるようになっている。

 つまり、本のファイル形式でデーターを落として来るのが違うだけで、無料のタイトルをカテゴリーに置き換えれば、ブログでしているのとほぼ同じ事ができる‥
 その都度書き足して更新させることができるのは、有料タイトルでも同じ‥
 ‥有料タイトルであっても、更新に追加料金が発生しない仕組みを用いているとある。

 しかし、本という形にまで持っていかなければならないのだから、書き手の作業手間は当然ながら多くなる。その意味で、電子出版は書き手にとってブログより敷居が高い。



1-6)2
 電子出版オンリーで作品を発表していこうと思っても、無料サービスの提供は当然として求められる。なぜなら、無料タイトルないし無料閲覧部分を開いてから、読者はその作品もしくは作家の好き嫌いなりレベルなりを推し量りたいからだ。
 そうであれば、有料しか並んでいない作家なんて敬遠されるだけだろう。

> 順当に固定ファンを掴もうと思ったら、無料で読み通せるタイトルも用意しておかなければならない。

 その点、ブログに誘導するのも手ではあるが、ブログのジレンマとして、カテゴリーを分けてタイトルを読んでもらおうと思っても、更新順の上から表示するべきか下から表示すべきかをカテゴリー単位では指定できない。
 だから、落ちを先に読んでしまい兼ねないような事態を想定するとあまり宜しくない。
 ‥検索したら、話の先や落ちが見えちゃったなんて言うのではどうしようもない。

 そこを考えると‥、本にしおりを挟むのは読者のペースだし、頭からめくってもらえば良いだけの話にできる。本の形なら、そこはお約束だ。
 でもブログでは、更新だけが見たい常連と始めから読みたい新顔との間に、どうしたって使い勝手の差は付きまとう‥それでなくても、書き手は問答無用で断りもなくカテゴリーの振り分けを繰り返したりするわけで、読者はそれに振り回されることになる。
 これは、新装オープンした大型スーパーやら家電量販店みたいなところがあって、何の置き場がどこに行ったのかがまるで判らない結果をもたらすばかりだ。

 ‥まぁブログ内検索タグを設けることである程度は回避可能だ。お店なら店員に尋ねればいい。それでも、ケータイ端末からご丁寧に検索をしてまで読み込むタイプの利用者が、どれだけ居るかを考えると微妙な感じはある。
 それとブログサイトによっては、ブログをケータイ端末から読むことを余り重視していないようなケースも見られる。
 だから電子出版であれば、書き手は、読み手の読む手順の多様性を意識する必要なく、素直に書き並べれば良いだけにしてしまえる。


 電子本の形での書き足し・書き下ろしプラスになると、中身の記事を差し替えたりする意味が薄れる。紙で刷るのとは違いコストは考えなくて好いのだから、どんどん継ぎ足すことも無理ではない。
 もちろん不用になった箇所は削る必要が生ずるだろう。
 その点、電子出版では※を付けて、その場その場で読者を参照に誘導することが可能だ。

 この※の機能性を利用して、実験的に自分の推敲課程をさらして見せるような挑戦的な表現も有りだとは思うが、そこまで読んでみたいと思わせるようなレベルに居ないとあまり意味はないと思う。
 それにしても、そこまで細かく自分の執筆経過を丁寧に記す必要があるのかどうかは微妙な話だ。それでもこだわろうと思えば、ブログよりは電子出版の方に分があるということになりそうだ。そしてその代わり手間も倍になる。



1-6)3
 ‥次に、価格設定をどうするかが問題だ。

 リアルの自費出版とは違い、電子出版では採算を考える必要がない。だから何を基準にすべきかはまったくのアバウトで、それこそ適当に見えてしまうのだ。
 そこで誰しもは、自由であるという反面、余計に戸惑うことになる。
 ‥できれば誰だって、無難にも、一定のもっともそうな理屈を建前に、値段を付けておくことを望むのだ。利益という奴はなぜか横並びに位置させておくことで、偽善よろしくにも自己を正当化できる所がある。‥偽善というよりは、そのように思い込むことで、余計な事を考えずに済まそうとしているとも言えるだろう。
 何しろ毎度のことだ。当たり障りのない説得力が求められる。
 著生だけがそう思うのか‥日本人だけがそう思うのか‥そこは判らないが、価格には公平を意識せざるを得ないなんらかの魔力があるのだ。

 まぁ細かいことを気にしないのなら、理屈なんて要らないわけだ。それが、自由に価格を決められるという権利でもある。
 しかし、価格を自分で自由に決められるとしても、それを理解して買ってもらえるのとでは意味はまったく異なる。
 買っていただける金額という奴は、結局の所、偽善にも自己を正当化できるスタンダードな理屈を求めるのと同じになってくる。
 書き手がそこをどう思おうとも、読者は消費者としてきっちり見ているし、社会的経済的な因果関係もそこに影響するばかりなのは、今更言うまでもない。

 言うならば、そのベストな接点を探し当てることが自由であって、なにも自由に価格を決められる権利を得たからと言って、自由を行使できていることには成らないのだ。


> その点幸いにも、パブーの{自分:パブー=7:3}の取り分率なら、割と妥当な検討ラインを導くことができる。

 仮に、一冊あたり200円分の利益を織り込みたいとしよう。
 すると{200:P=7:3}の式の中のPを求めれば良い。
 P≒85.7だ。つまり¥85.7を200に足して、¥285.7‥が得られる。
 それに消費税が掛かれば5%なら¥299.985、10%なら¥314.27‥になる。売上げが見込めない内なら引き落とし手数料等も気になるだろうから切り上げてもいいだろう。
 ようするに一冊あたり200円を得たいなら300〜320円を示す必要がある。
 これで順当に月50冊ぐらいの売上げが成り立てば、月一万円程度の小遣いを得ることが可能のラインになる。まぁその範囲ならば、双方の理解を得るに十分な見方だと思う。

 ‥もう少し細かく言うと、

 日々のブログアクセスで読者が50人程度だとして、月30日で考えれば、1タイトルあたり購入してもらえる確率は3.33%程度だ。
 それが多分2ヶ月で止まると考えれば、少なくても2ヶ月に一つは作品を上げることができなければ、相乗効果には結びつかない。
 多くの人が、年に一つか二つの有料タイトルを仕上げるのがせいぜいなのに、これはかなりプチプロレベルの勢いを要求している。

 であれば、ブログの方が圧倒的に気楽に更新して楽しめるだろう。著して生きることを楽しむだけならブログの方が無理がない。
 それらを年に何回かまとめてみる方向で考えるにしても、多くの人に当てはまるのは、ライフワークでもないし商売意識でもない。単に著生があるのみなのだ。


 ‥それにしても、従来の出版であれば夢みたいな話だ。
 そちらの方では、一冊300円なら取り分は10%の30円なのだから、50冊売れても1500円だ。とてもじゃないが、ちょこっとやってみたいなんて金額にはとても思えない。
 大体だ‥50冊分の本の印刷を1500円以下で引き受けてくれる印刷屋なんてあるわけが無い。そういう意味でも夢みたいな話である。

 その一方で、読者が300円で求めるサービスには、ビデオレンタルが強大なライバルとして立ちはだかる。そのビデオレンタルにした所で、さらなるライバルとしてトレントが登場している‥お陰で今や100円も当たり前の時代だ。
 そういう意味で言うならば、「もはや創作に適正な価格など存在せず!」と割り切るべきが正論だ。

 アニメフィギアが一体で三億円の価値を持つ‥何が何だかさっぱりだ。有名画家や音楽家の人生うんちくの方が、かえって眉唾に聞こえてしまうほどである。
 どんなに頑張ったって、ネタであるアニメはいろんな人の感性の成れの果てで、それが好きでたまたま素材として用いて、空想を膨らませて作り込んだ。それをたまたまお金を持っていて欲しかった誰かがオークションで高額で競り落とす。それで三億円だ。
 どんなに控え目に見たって、これに人生のすべてを掛けてどうのこうのような説得力のあるような大作ではない。せいぜいが今回はここん所にこだわってみました程度の力作だ。
 それでラッキーにも三億円だ。当人が得るのは多分名誉だけだろうとは思うが、運も実力の内だ。でも、何の実力かという点で「?」が灯る。当人だってそう思うだろう。

 だから、グローバルに感性を共有できるようになってしまった現代において、創作者への利益還元は、既得に消費を自負する人たちのボランティアであり、且つパトロンであり、コネクションであり、モチベーションである。それだけでしかない。

> ‥高いとか安いとか、そういう目線で見ること自体が間違っている。



1-6)4
 それでも人気があるなら、そりゃ、価格を落としても好いだろう。

 例えば、一律一冊分ごとに、利益がX万円を超えたら半額にします‥Y万円を超えたら最低金額(10円)にします。さらにZに到達すると一時的に電子版から廃版にします‥という約束を決めておいても好いと思う。

 売れているのに廃版は有り得ないと考えがちだが、そこは持ちつ持たれつで、リアルの出版で出してみるというのも有りだ。まったくの電子化一本なんて有り得ない。
 そもそも、出版可能の分だけの利益が得られたのなら、是非リアルでも出版してみたいと思うのが、作家としての本音としてあるはずだ。否、無いというのはおかしい。

 それは、自己存在を拡大する上での試みにもなるし、より多くの人への宣伝効果も得られるだろう。そして祭りみたいな所もある。
 ‥なにはともあれ、活字文化として求められるべき展開だ。

 まぁ赤字が出ないように考えれば、一定冊分を得るのにその都度グルーポンして、それを何回か繰り返した後、また電子本オンリーに戻す感じにはなると思う。
 あとは、値段をいとわないのなら、特定数単位で印刷する技術もあるようだし、欲しい人次第だろう。

> ようするに、考え方次第、売り方次第で、電子本とリアル本とで棲み分けも可能と言うことをしていくべきだと思う。


 なにも無駄にアメリカナイズに足並み揃えて、市場シェアを全部電子本で埋め尽くさんと言わんばかりの空気はどうも好かん。
 強気と弱腰の両側面はあるにせよ、利益優先で文化のなんたるかを省みないのでは、文化なんて口にするだけ猫に小判だ。

 それにしたとて、一律一冊200円程度の利益を得るという理解に対して、作家や作品それぞれにどの程度のレベルを指して言うことになるのかは、それこそ市場の動向であって理屈ではない。なにしろ損得感覚は相対的だし、評価も十人十色だ。
 市場主義という奴はそういう所で使われるべき言葉であって、資本家が口にするような、勝った方が勝ちなんだとするような、資金の投じ方の成れの果て的な剣幕で使うべきではない。

 そもそもだ‥投資家がそんな鼻息だけ荒げて上から目線だから、逆に裾野から総スカンを喰らって、市場が縮小しまくるだけなのだ。そろそろそこに気が付けと言いたい。




1-6)5
 そもそも誰かの繁盛を見て、売れっ子になることに無駄に憧れるわけだし、それに関わる商売も横に並んで御輿を担ぎたがるわけである。
 そんな流れの中で培ってきたのが、なんだかんだで、筆一本で生きられるなんて考え方だ。剣や銃をペンに変えてみたところでやっていることは、非生産的な関わりだ。
 スタンスとしてはなんら変わらない。

 実際それらは全体の生活が成り立っている基盤の上に生えてくる花の蕾のようなもので、社会が茨の道のままで、どうしていろんな花を咲かせることができるだろうか?
 基盤の土壌が悪いままなら、多くは咲ききらずに枯れるのが落ちである。

 ‥なのに、無駄に勝ち組で生き残れれば、生活が成り立ってしまう流れがあるから、ついついそれに乗っかりたくなるのだ。そして成功を収めている者達でさえ、筆一本にしか興味を示さずに人生を終えたいと言わんばかりである。
 そんな文化の中で文化に溺れているような有様のどこに、文化興隆に理解があると言えるのだろうか、言えはしまい。

 人が健やかに生きられる土壌に、より良き手を加えるには、筆だけじゃ成り立たないのである。

 なまじ筆先やキータッチだけで飯が食えるなんて時代になっているから、創造力も構成力もあるくせに、無駄に空回りした時間を持てあまし、そのままに朽ち果てんとばかりの流れに身を委ねることを望むのだ。
 それを皆で、贅の極みだと互いに思い込んでおる。そんなぬるま湯文化を支持するばかりの風潮で好いと思い込んでおる。

 だから、益々、批判の対象にされるよりは、批判する側に回って悦に入るのが勝ちみたいなくだらなさを呈するばかりだ。
 その結果、今度はそれもまた嫉妬されて誰も買わなくなるのだ。身に覚えのある書き手はいくらでも居るはずだ。


 音楽家でも画家でも何でもそうだが、みんなのためにすることは何も創作に精を出すことばかりではない。すべてにおいてリアルに関わることが重要だ。
 それが世界的な‥という冠詞の意味合いへと昇って行かせることだろう。
 その点、なぜかクリエーター的に、これ一本で飯を食うをみんなで無駄に許していれば、誰も積極的にリアルに関わろうとしないままに朽ちるのだ。
 とくに今の世の中のおかしさはそういう点にあると言えるのだ。

> 芸術家だから、村おこしもアートで‥なんて考え方自体が貧相でアートじゃない。
> そこに気が付かないおろかさ。そんなアートはアートじゃない。
> 生命の躍動こそアートであって、生命感を書き表すなどその下とぐらいに考えるべきなのだ。

 買っていただいて育ったのは作家ではない。文化の方だ。
 政治をその意味で語るなら、管理好きな人と創造的な人と半々でやるべき事だ。

 なのに、一方は想像力だけでまなじ稼げちゃうから、他業種に対して興味を示す目が遠くなりがちだ。結果、ご満悦にも茶化してお終いばかりに陥る。茶化した事への改善意欲は丸っきり見られないのに、皆もそれで納得しただけでお終いだ。
 ‥少なくともそういう風に見える。

 また一方の政治家は、コネばかりを求めて彷徨っている。訴えるパフォーマンスに優れているところはあっても、構成力はなぜか今一つで、無駄に引き延ばすことが唯一の仕事だとでも思っているかのようだ。
 戦争であればそんな戦術は有り得ない。そもそもにして戦の引き延ばしは、共倒れにしかならないではないか。民と心中する作戦しか思いつかないキチガイそのものだ。

 作家が、本当に訴える意識で作品を書いているのなら、リアルの関わりに参加しないなんて態度のままなのは、自己否定を貫いているようなものである。
 そこに創作家としての潜在的な罪の重しがあれば、可の者の作品は好まれなくなるだけだ。もしくは、無駄に病気がちだったりするのだろう。
 他業種の業界を見渡したって同じだ。同じ事が起きている。
 ‥出版業界の衰退はまさにそこを象徴する。音楽業界だって映画産業だって同じだ。

> 所詮そのような意識程度の創作スタンスなんざ、猫に小判でしかなかったんだよ。
> どれだけ売れたとかなんて気にするような消費の側にも問題有りだ。何が有り難いかなんてまるでわかっちゃいねーのに、有り難がっているだけの猫に小判の如しである。

 実際の猫にしたって、かまってくれさえしてもらえればご満悦なんであって、小判が欲しいわけでも、メタボになっちまうほどに贅沢したいわけでもない。
 過ぎた創作への好奇心なんざ、本質的な価値を有してはいないのだ。
 なのに‥なまじお世話になってしまえばそれを口にできなくなる。
 ‥続けることだけがすべて、そう思い込むことになる。
 其を不自由と思わないからその程度というのだ。もしくは盲か気まぐれかお調子者かだ。



1-6)6
 まぁ、そんなこんなでして‥
 電子出版を検討するにあたり、ペンネームを再び見直してみた次第でございます。
 ‥3月頃に新たに考えていたのが没になりまして、今再びの変更の経緯→こちら
posted by 木田舎滝ゆる里 at 03:02 | Comment(0) | パソコン悩ましいZ | 更新情報をチェックする
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