2013年06月28日

【傑策】21世紀版の鎖国策を模索してみた

1-4)0
 江戸時代の鎖国策とて、完全に鎖国していたわけではない。
 取り締まりを必要とした理由としてまず挙がるのが、反キリスト教政策だ。
 その一方で、海外との貿易はそれなりにしていた。それはそれでなんというのか、武士のメンツを保つため‥まぁそんな空気だったように思う。

 では、21世紀において鎖国策を取る意味はあるだろうか?

 はっきり言って、鎖国の表現にしろ、経済封鎖にしろ、規制強化にしろ、グローバル時代のご時世に何をトンチンカンなことを言っているのかを問われるばかりで、表現上よろしくないのは確かだ。
 しかしである‥あえて、外交よりも内政重視の意味合いでもの申すのであれば、それはそれで制限を課すことになるのは避けられまい。

 具体案を述べれば‥それは、北海道をアイヌ州に、沖縄をうみんちゅう州に、その他を大和州にして、三州制を考えてみたところから始まる。

(※補足的な意見としては、北海道と東北、九州と沖縄で括ってみるのもありかな‥?)



1-4)1
 世間一般に言われている道州制は、外交権の分譲は織り込まれていない。中央のみが外交を担うとするのが一般的な理解になっている。
 しかしこの三州制は、北方領土問題と沖縄問題に対して、現地采配を前提にして権限を分譲するという内容を含めている。そこがずばり大きな違いだ。
 そうでもしないと、州分割の意味は、その二地域には何ももたらすまい。

 歴史的な見地から言うと、民族枠の再分割という意味合いを持つことになるわけだが、それはそれで賛否両論にはなるだろうが、現地受けは良いはずだ。



1-4)2
 次の課題として経済的な枠組みをどうするのかを考えたとき、当然、地域主権を持ち出せば、国際コネクションとしてのポジションを、アイヌ州とうみんちゅう州に持って行かれるのは確実だ。
 それはそれで、大和州の影響力が薄くなりかねないという感覚に陥ることになる。
 しかし、すぐというわけではない、それぞれに抱えている課題をクリアーできない限り、そうはならない。

> これはあくまで、州制導入を本格化する前の慣らしとしての実験的な意味合いをかねた形でもある。



1-4)3
 仮にこの三州制が順調に進むと、今度は、九州辺りに新たな国際コネクション作りの機運が高まる感じだろうか。

 仮にそこで九州にも二州と同じような取り扱いを許すとなると、東京を主軸に国際関係を取りまとめるという意味はますます遠のく‥
 何はともあれ、近いところ同士でおつきあいすれば良いというのが、本来的な意味での地域主権である。それは何も、同じ国民同士のお隣さんという事には成らない。

 すると、中央としては、やはり外交回りの権限を制限しておく必要が生ずる。
 良い意味でも悪い意味でも、それが中央のメンツと言うことになる。

 それでも経済的な面での裁量権を地域に与えてしまえば、意味は無い。
 ある意味でそれは、縦割りにしかならないだけだ。
 相も変わらず融通の利かないちぐはぐを前提にしてしまっていては、国家の大損である。

 ‥そこでどうせなら、もっと効果的に融通が利かない方策を執るべきである。

 結論を述べれば‥
 日本国はその統治に、内州(大和州の中のいくつかの州分け)と外州(アイヌ州とうみんちゅう州の二州)の概念を持ちだして、内州の中での外交権は大和州の中央が担い、外州の二州に対しては独自的外交権を委ねるとするものの、国の法として、外交権を二重に用いるとし、双頭制での決定を日本の外交姿勢にしていくという考えに至れり。


 ‥これを外国から見ると、沖縄絡みで言えば、両方からの同意が得られないでゴリ押しさせては、違憲レベルの扱いになるということだ。
 これにより、外州が不利益を被りかねない場合など、建前と本音のてこの原理が外と内とで、いくらでも活用できることになる。

 つまり、そこにある得体の知れない日本人独特の閉鎖感が生ずることになる。
 現にそれは地域と中央の色合いの違いで生じているわけだが、中央はごり押しするばかりでよろしくない。
 だからそこのところを、論理形式にしてみれば、このような体制が登場することになる。

> これを二重堀外交策とでも呼んでおくとしよう。
 これぞ、21世紀版の鎖国体制といえようか‥。

 海外向けには、従来的な民族性の意思を通したとでも行っておけば良い。誰もが納得するだろう。
 そして納得せざるを得まい。そこに生ずることに成りかねないねじれに対しても。



1-4)4
・ 外国が大和州の中央に意見を垂れた→前向きに善処します→外州が反対票を投じるのでダメでした。
・ 外国が外州のどちらかからお願いに上がった→前向きに善処します→大和州の中央に反対されました。

 これが二重堀外交策の効用だ。
 嫌なことは、YESの顔して全部NO。

 こうなっては、外国もお手上げか、ブチギレになるかのどちらかだ。しかし簡単にブチギレてばかりいては、逆にそこを誰かにツッコミされて、ますます遠のくことになるばかりだ。

 こうしておけば、成らぬことは成らぬの日本人の感性を、暗黙の内に表現できることになる。
 所詮、日本人の感性は、未だに孤島の神秘に満ちた島国人でしかあれていないのだ。
 なにしろ国民の多くは未だに英語が苦手なままだからな。

> 大体だな、なんで不便さの目立って仕方のない海外の言葉を主体にしなければならないんだ。はっきりいって侮辱なんだよ。ふざけんなよ。

 言葉が合わないと仲良くなれない。まぁしょうがねーよな。
 言葉の中の誠が根本的に違うから意見が異なる。まぁしょうがーねよな。

 そもそも少数派の意見を尊重しない海外の民主主義なんか糞。
 日本人は、世界の中の少数派を地で行ってんだから、自覚しないとな。
 このままだと、本気で民族性失うぞ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 03:53 | Comment(0) | 目の付け所をナス | 更新情報をチェックする
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