2013年10月19日

【推理】壬申の乱を斬ってみたくなったが資料不足

1-5)0
 ええ、突然ですが、
 他の記事がオーバーヒート気味なので、まったく別のテーマで‥一つ。


> 壬申の乱とは何だったのか?



1-5)1
 歴史的背景をさらりと表記。


 663年:白村江の戦い(倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争)
 天智天皇の即位以前の戦争。大敗。

 なぜか、百済難民を東国へ移住。
 なぜか、近江宮遷都、遷都に対する豪族・民衆の不満充積。

 671年9月、天智天皇は病気に倒れた。
 10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、
 大海人は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。
 12月3日、天智天皇は近江大津宮で崩御した。

 天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかった。
 しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において、
 大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し天武天皇となる。

 天武天皇は、

 天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇と言われる。
 国風化策に邁進。特に日本書紀の編纂なんかしとりやす。



1-5)2
 はい、普通に俯瞰してみましょう。


 どう考えたって、
 当時の倭国の中枢部は、百済よりだったと言うことになります。
 ‥現在過去形の在日支配問題に置き換えてみれば、わかりが早いかと。


 白村江の戦いの意味を考えても、さっぱりです。
 故国が危ういから援軍を出した‥まぁそうなります。
 百済難民を受け入れたのも、人道的と言うよりは、中枢部が百済人で占められていたから‥

 「‥もしからしたら、唐が攻めてくるかも知れない。」

 そう考えれば、
 九州とか、山陰とかじゃなくて、
 もっと安全地帯に地盤を設けておいても悪くないかなと‥考えますね。


 遷都した理由は分かりませんが‥
 単純に考えれば、百済難民の中にも貴族が居て、
 その貴族たちを元気づけるために、見栄を張ってみた‥

 ‥なるほどなるほど、百済人貴族のなぐさめになるようにと、無謀なおもてなしをしてみたと。

 当然として、
 戦争に負けておきながら、褒美も乏しく、
 負担ばかりを押しつけられていれば、そりゃ、下は不満を募らせることでしょう。



1-5)3
 え、次です。


 どうして、大海人皇子は皇位継承を蹴ってまで、
 在野に下ってから、わざわざ壬申の乱を起こしたのでしょう?

 ‥まったくもってちんぷんかんぷんです。


 しかも、この辺りの天皇家の系譜は、
 どうみても、近親婚が激しすぎです。不可解極まりありません。


> その不可解の正体こそ、日本書記の編纂です。
> 後からいくらでもてこ入れされているように思われます。


 「戦争に負けた‥」はい、倭国の西側の兵力はがた落ちです。
 つまり、百済の息の掛かった勢力の力は底をついています。
 その点、東国の兵力は有り余っております。そう考えて良いでしょう。

 ―討つなら今です。―
 「今をおいて、いつ討つというのでしょうか?」


 天武天皇と持統天皇のどちらかは、
 稲荷山古墳 (埼玉県)に見られる[日本]なる国の血筋だったのではないのかと‥
 参照:金錯銘鉄剣鉄剣鉄刀銘文

 もしくは、

 大海人皇子という名を鑑みるに、海人族がバックに付いたとか‥
 吉野に下ったという辺りを鑑みれば、八咫烏がバックに付いたとか‥


> ‥兎に角、野に下ったんですからね、すかんぴんの乞食同然です。


 天皇家の威光というのがどれ程に知れ渡っていたかは知りませんが、
 誰も皇族一族の顔なんか知りません。メディアの無い時代です。
 そりゃもう、単なる旅人です。

 奮起して謀反を起こすにしても、話がおかしいでしょう。

 現実的に見たって、自分が実権握って、要らない奴らを追い出した方が簡単です。
 なんせ、一度は譲ってくれる話があっての辞退です。
 ‥その上で、反旗を翻す意図が分かりません。
 ‥なんでわざわざ、野に下る必要があったのですか???


> 答えは一つ、全部が敵だったから。
> 天武の命名にしたって、神武をパクっているとしか思えません。


 そのうえ、神宮の式年遷宮が始まるんですよ。
 出来過ぎです。

 ‥もっと言ってしまえば、
 いや止めておきましょう、何が何やら訳が分からなくなってしまいます。



1-5)4
 推理として、
 日本書紀に示されている壬申の乱の経緯は、
 当時の官僚ウケが良いように、脚色されているように思われます。

 それもこれも、


> 八咫烏ないし海人族の存在性と正体を隠すため‥チーン。


 ベタで読んだって、

 大海人皇子に資金を出してくれる御仁が居なかったら、兵糧の確保ができません。
 文無しの旅人の身分を、
 高貴の身分にあらせられまする‥なんて、誰が保証してくれるって言うんですか?
 侍にしたって当時は下っ端なんですからね、顔を知ってるわけがありません。

 各地の勢力を打ち破りながら上ってきた神武天皇の伝説とは中身が違います。
 また、どこかの武士の頭領の話じゃあるまいし、
 すかんぴんの若夫婦に賛同する‥なんて、後光でも射さない限りありえません。

 たしかに、そういう筋書きになっておるようでして、拍手ものです。


 天武天皇の死後にしたって、
 息子二人が変死、そんでもって奥方が立つという展開。

 どこまでが本当で、どこまでが脚色かは分かりませんが、
 なんだかんだで、血筋の問題のように思われます。
 ‥手を貸した勢力が、自分たち勢力血統の天皇を見たかった。

 当時の近親婚は、
 大して珍しくないでしょうから、
 強引に無難に収まるように、押し込んで書き記してあるのでは‥


 その結果、式年遷宮が始まるんです。
 納めてある物にしたって、八咫鏡っすよ。



1-5)5
 ‥え、そんなこんなで、
 式年遷宮の年に、在日勢力の大崩壊に至って良かったね。
 名付けて[平成の壬申の乱]なんてね。


> そして、新たなる国風文化へと向かうのであります。


 ‥後付けでなんですが、

 百済人の遺伝子と新羅人の遺伝子が同じという次第にはないように思われます。
 何はともあれ、敵対していたんですからね。
 そしてついには大国の手を借りてまで、討ち滅ぼした。
 ‥まったく違うと考えて良いと思います。

 それでも、

 大和人と百済人とではまた違うと言うことです。
 ‥この辺りをどう考えるかで、朝鮮系の意味がまったく異なってきます。


 「古来より、天皇家の血筋に朝鮮大陸由来が混じっている‥?」
 在日勢力がそう思い込むにせよ、遺伝子はまったくの勘違いに終わるだけです。

 ‥一部、朝鮮由来なのではなく、
 百済由来の可能性の範囲に止まっているのであって、
 今現在の朝鮮人の定義の先祖に位置するかと言えば、冷静に見て、違うと断言できます。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 03:53 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする
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