2013年10月23日

【推理】神仏習合、その裏側の真相(資料不足)

1-3)0
 え、前回の続きです。
 前回の推理を前提にした推理になりますので、まぁ聞き流す程度で楽しんで下さい。



1-3)1
 ずばり、神仏習合とは、
 その中身の本質は、倭国と百済との同盟に思われます。


 始めは、かなり対等にあったように思われますが、
 仏教を取り込んだ倭国の側が圧倒的な発言権を確保するに至り、
 百済からの商人やら職人やら留学生やらが渡来するようになると、
 百済国の方は衰退を始めだし‥新羅に襲われるようになった
 ‥なんて感じだったように思われます。


> そこで、聖徳太子が何者なのかがとても重要です。


 歴史的背景としても、
 聖徳太子の本格的な登場は、
 神仏習合の時期から数えて、親の世代が仏教を始めて知り、
 その子が仏教に馴染んで育ち、
 そのまた子を本格的に留学させようなんて3世代目の帰国の成長期に当たります。

 ‥諸説あるようですが、
 二代目の時点で留学をさせても可能なほど、聖徳太子の才覚は希に見るなんとやらです。


 ‥中には、聖徳太子をペルシャ人とする説もありますが、

 隋から百済へと、仏教以外にも様々な宗教が伝わっていたとすれば、
 聖徳太子にあれば、仏教以外にも、様々な教養を身につけてマスターしていた。
 ‥なんて風に考えてもおもしろそうですね。

 当時の百済が、
 どれほどに仏教文化に花咲かせていたかは、
 聖徳太子が連れてきた職人事情を推し量れば明らかです。
 それは、随より仏教が盛んにあったからという証拠以外の何者でもありません。


> そもそもです、


 時は下りますが、
 奈良の大仏建立の式典(開眼法要)に、世界中から坊さんが集まった‥
 「そんなネットワークがどこにあったのか?」

 ‥海人族が手引きしたとか、
 それ相応の商人ネットワークがあったと見て間違いないと思います。
 海洋技術がないと、式典の当日に互いに顔を向き合わせるなど、とてもとても無理です。



1-3)2
 そもそもです、
 倭国が百済の属領化に向けて使者を出したとか、


> そういう話は一切聞き及びません。


 百済は、仏教最先端のノウハウをひっさげて倭国に来た‥
 何しに来たのかって、そりゃ、あれでしょ、同盟です。

 当時の倭国は、
 何かと新羅に対して好戦的で、まさっていた記述が見られる割には、
 侵略には及んでいません。

 その辺り、海人族が交易のルートを確保するための争いだったとの見方も可能です。


 新羅より先だって、
 仏教を取り入れていた百済は、
 国体のあり方においてまとまりがあったように思われます。(交易に対する理解)


 一方で、
 倭国が百済を属領にしていたとするのが、日本の歴史観としてあるようですが、
 どう考えても無理があります。

 百済から持ちかけた同盟が、
 結果として、人材の流出に繋がり、国力を弱め、
 新羅の台頭を許す流れを生みだした‥

 その流れを生みだしたキーマンとしても、聖徳太子の存在は外せません。


 ‥その時、聖徳太子が百済人だとして考えた場合、
 どうしたって、百済人としてその流れに乗るとする心境が推し量れません。

 また‥無理に聖徳太子を倭人に見立てずとも、
 外国から百済に渡ってきた学者か何かで、
 商人と組んで、倭国に仏教施設を建てにやって来た変わり者だったする見方も可能です。

 ‥なぜ、(仮想外人の場合の)聖徳太子がそうしたかは、ずばり、


> 新羅が、軍事遠征用に舟を造る技術を持たないことが分かっていたから。


 ‥半島を統一したにも関わらず、
 新羅の時代に、仏教精神が半島に土着したとする中身が見当たりません。

 ‥それこそ、百済の職人が、倭国や高句麗方向に避難していたと考えざるを得ません。
 ゆえに、残された職人では、百済仏教の伝承がされず、
 新羅時代にあるべき開花も成されず終いに終わった‥そのように解釈することが可能です。


 ‥百済の大工にしても、

 いくらか育ちの遅い朝鮮半島の木材を使ってしまうよりは、
 少し南方にある倭国の豊富な木材に目を向ければ、
 自分たちが移動した方がずっと話が早い時代でもあったわけです。

 ‥海人族は、その手の商売もしていた。
 百済の職人も商売っ気が強かった。
 なんて方向で想像してみても不思議はありません。



1-3)3
 ‥神仏習合にしても、


> 何も、仏教だけが伝わって来たとは限りません。


 ‥聖徳太子を見てもそれは明らかです。
 ただ単に、仏教だけを以て、神仏習合に位置づけるのは、軽率に思います。


 仏教と共に、
 当時の外にあった様々な宗教の伝承も興味本位に興味を示し、
 そこから、お気に入りの何かを得れば、
 いろいろとした宗教で行われている祭りの要素を取り入れるようになり、
 国家の安泰を求めるブームが起きた時期もあったのではないかと思われます。


> ‥とくにその後の大仏建立は、


 その様々なる功徳を迎え入れるに好都合の機会にあったように思われます。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:49 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする
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