2013年12月22日

【刮目】天皇と国民の間にある鏡似性

1-3)0
 裏社会=王政復古と言ってもいいような実情は、
 聞いて呆れる内情である。

 しかし、

 そこを表にしても、民主社会が成り立てば良いわけであり、
 陰謀論として隠しているような状態だからこそ、こそ泥も紛れることになる。


 王族が、発行権の裏付けとなる金塊を、
 国家の財務省に管理させたとしても特に問題はない。
 国民主権発行においても、裏付けが必要ならそうすればいい。


 それにしても、今や日本の天皇は、世界の王族の中でも秀でた権威を見せている。
 その裏付けにあるのは、言うまでもなく、
 手元にある金塊では無い。日本国民の国民性にある。


> 天皇と日本国民は、一蓮托生である。


 天皇が日本国民を撫民として慕えばこそ、
 世界から見た天皇への敬愛にしても、一層にして巌に苔のむすほどに長きに亘ると言える。



1-3)1
 ところが、
 日の本の撫民を使い捨てのコマのように扱うようになったのは、
 時の明治政府から以降である。


> 陰謀論の類いの中には、天皇家にもいろいろとした黒い噂が登場する。
> その最たるは、維新混乱期における天皇のすり替え話である。


 そのような話を持ち出すと、途端に天皇文化の根幹が瓦解しかねない話になる。
 ある意味でタブーである。
 しかし、他に皇族も存在しないのも事実。

 そこに見いだされる責任は、維新の混乱期に、
 天皇を傀儡にすべく陰謀を企てた者たちに責任を取ってもらうより他は無い。
 ‥それももはや無理な話である。


 ゆえに、今ある天皇家の形にケチを付けてみたところで始まるまい。


 それにしても、時の明治政府が手腕を振るうことになった富国強兵策は、
 そのような虚偽を醸し出した陰謀の中にあって、
 天皇文化を正しく導いたとはとても言いがたい。

 そこに失敗が混じっていたことは明らかである。

 自民党政権は、そこにあった偽りを正すことなく、
 時の明治憲法にお手本を見いだし、
 日本国民を、ボロ雑巾としてすり切れるまで貪りつくさんとしている。

 それは明らかに、
 戦後日本が、築き上げてきた天皇を戴いた日本の繁栄を貶めるが如し顛末を醸し出しており、
 日本国民を使い捨てんとする考えは、天皇の地盤を揺るがしかねない反逆思想に価する。


> 天皇の財とは金塊に非ず。日本国民であり、そこに築かれた和の文化である。



1-3)2
 ‥調子こいてる財務省にしても、
 同罪きわまりない道の上を征くが如きだ。


> それにしても、王族のしていることなんざ、


 いつの時代も相も変わらずだ。
 ‥言っちまえば、パーティー三昧の日常のようにしか見えてこない。

 そもそもにして、

 その辺りからして情報が下りてこないのは、警備上の問題もあるのだろうが、
 余りにもお粗末であり、憤慨である。


> 憤慨である!!


 国家の元首として、何もしていないようにしか映らないのは、
 明らかに国民からしてみれば、贅に現を抜かしているだけの有り様にしか思えない。
 それで良いと思っているのかどうかさえも見えてこないのは、元首として恥であるはず‥。

 たとえ、

 現行憲法の表記の中に、そこまでの責務も手段も認められていないにせよ、

 「実におめでたい忙しさとしか言いようがない。」

 ―天皇と国民との間に、あるべくしてある鏡似性の今があるばかりだろう。―



1-3)3
 著生は何も、
 上に立つ者が、華やかな暮らしをすることに憤慨するのではない。
 そんなのは、ある許容において財を成した者の自由にすれば良きこと。

 しかし、

 「和を以て尊しの日本文化に汚点を付けたままに、贅を歩んで何が誇らしげなのか?」
 ‥ただそれだけである。

 そこに目を瞑ったままにあるようでは、
 放蕩馬鹿息子が、国の財をむさぼり食わんとしている姿と何も変わるまい。


 「‥鏡似性とは我ながらにも良く名称したものである。」


 鏡似性について、
 詳しくはこちら→『思念の扉』にてどうぞ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:45 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする
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