2013年12月24日

【刮目】同意依存から脱する為に

1-3)改稿.2015/09/21...20131224...

> 人は、自身が汗した糧だけは信じられるものだ。だから、汗した糧を失いたくなどない。
> たとえそれらが周りと比べて未熟にあろうとも、人はそこからしか前進できない。


 「同意依存症候群」
 マインドコントロールされた状態を、日本語に訳せばこんなだろうか。
 ‥同意依存だけで用いれば、個人の思い込みの方を強めに意味することになる。

 世間の情報をどんなに取捨選択しようとも、自分の見方でしか解釈できない。
 ‥それら価値観の根っこにあるのは自我である。

 同意・うなずいてしまう思考の中には、
 ついつい引き寄せられて、それの辻褄を点検することなくうっかり信じ込む癖がある。
 ‥人とはそういうもの。それの経過を見ないことには、互いの存在感としての意味合いにも欠く。
 (頭から疑ったり、否定ばかりでも、おもしろくも何ともない)


 「汝は何を望み信じたか?」‥まずはそこを確認する癖を付けることだ。



1-3)1

 騙した方は、騙された方が悪いなどと‥開き直ったような言い分をよく口にする。
 まぁそんな台詞を吐いてる時は、バレて捕まっちまった時だろう。
 もしくは、ちょっとばかりの罪悪感を抱いているか、迷信を気にして正当化したいかのいずれかだ。

 そもそも、他人が何を欲しているのかを計った上で白を切る。
 頭から素知らぬ振りなのだから、最後まで押し通すのは意地というものだ。
 ‥人の意地にケチを付けても始まるまい。むしろ他人の意地を否定しては墓穴だ。


> 騙す・裏切るを外道と思うにせよ、


 なにゆえに、相手がそのような反応を示すのかを、解らぬままでも良いなどという訳にも行くまい。
 ‥そこには、己の未熟の様があるのだから。
 ‥未熟を識る上でも、そんな悔しさに見舞われる次第にもなろうか。

 しかしその時、

 加害行為の意図を推し量ることができなければ
 それはそれで、いつまで経っても同意依存の裏返しのままだ。
 同じ悔やみが、繰り返される事になるだろう。

 残念なことに‥相手を非難して終わるだけの者の方が多い。

 だからだろう。「騙した方が勝ち」などと傲り高ぶった薄ら嗤いが、蔓延ったままになる。
 そのままでも良いなんて事は有り得ない。泣き寝入りは以ての外である。
 ‥否、己の未熟を知ろうとせぬ有り様こそを、泣き寝入りというのだ。


> 同意依存を克服するには、


 徹底して、その時の自分の選択支を請け負う気持ちが欠かせない。
 (損得を以て選択支を選ぶだけではダメダメだ)

 物事には表裏がある。まずはそこを確認した上で、どちらも受け入れる姿勢が肝心だ。
 (片方しか考えていないから、予想外とばかりに余計に腹が立つ事になる)

 知る限りのすべてを推し量った上で、自分の進むべきを選ぶのだ。
 (その時、そこに関わる人間関係はそれほどに骨子ではない)


> 何を信じるべきかと言えば、全体での生長にあるべきこと


 自分のことしか見えていなければ、余計に腹が立つ事になる。
 ならば、自分の要求ばかりを中心に考えなければ良し。互いの都合も推し量るべき事だ。
 ‥漸くにして、信じるとした気持ちの中に「しなり」が生ずるだろう。


 自分の欲求は、他人とイコールなのでは決してないし、しかもアバウトだ。
 ‥お互いにそうなのだとする視点を、棚に上げていては始まらない。

 その上で、大らかになることだ。図太く天に委ねる気概が求められる。

 常勝とか、私の頑張りとか、真っ直ぐでないとダメとか、いつものアレとか
 ‥そういう主張を言い始めると、途端に同意依存へと落ちていく。(自らが自らを同意依存に誘う)


> 裏を返せば


 騙す側も、騙される側も、自らの都合に同意依存しているようなものだ。
 ‥他の選択支を顧みることができない状態だ。
 ‥修正ができない。頑固なまでに目が一つだ。
 ‥チャンスと思ったが最後、引き返せない選択支で見る癖がある。
 ‥自らを許すことができなければ、人に謝ることもできない。(是が一番に同意依存にハマる)



1-3)2

> 例えば、近年の医学は


 通常でない症状に対して、何かと「なんちゃら症候群」と命名するようだが
 「損する気持ちが強すぎる異常さ」を、症状とまでは判断しないようだ。
 ‥それはそれで、偏った見方ということになる。

 そもそも、

 心理学上の見解において、「正常とは何か?」という定義を聞いた例しがない。
 そこの基準が疎かなのに、周りの一般的見解だけで判断が成立し、薬が所望される次第にある。
 ‥そのような医療診療や心理学的見解は、はっきり言って危うい。


 「心に思い患いの無き状態を、どう判断すべきだろうか?」


 薬を飲んで釈迦の境地にでも、悟りの極みにでも至れるのなら、
 人生の苦楽の意味もまた「無」と言うことである。

 「無は正常だろうか?、特別だろうか?」「特別は異常だろうか?」


 薬で解決するお手軽を、安易に信じ込んでいるお粗末は、
 薬を造る方も、処方する方も、飲む方も、同意依存の端と端でしかない。

 「人が万能に無いのに、どうして人が作り出す薬を万能と言えるだろうか?」

 ‥そもそもにして、あなた方の薬への依存自体が無知の様にあろう。
 (そこを普通にしか見ていないのだ。なぜそこを基準にしている‥)



1-3)3

 事象が釣り合うからこそ、それはやって来る。
 其を「鏡似性」と呼べり。

 学ぶ必要が有るからこそ、壁はやって来る。
 其を「修行」と呼べり。

 勧められたのに悪化した‥治るどころかさらに依存するようになって行く。
 其を「陰謀」と呼べり。「無知」と呼べり‥「実験」とも言うかな。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:23 | Comment(0) | 刮目 | 更新情報をチェックする
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