2013年12月26日

【刮目】シュールにも似かよる軍階級構図の現代社会

1-3)0
 旧日本帝国軍隊の縦構図と来れば、
 上から順にこんな感じ。


 将校クラス
 士官クラス
 下士官
 一般兵

 銃後の一般庶民


 士官クラスに上るには、
 士官学校を出ていないと士官には至らない。
 士官とは、少尉から上の身分を指す。
 下士官とは、ベテランの熟練パイロットでもその程度の待遇であり、教官になったりした。


> ただし、これは日本の事情で、


 世界的な傾向としては、優秀であれば尉官クラスぐらいまでは上がれる。
 ‥戦争を積極的に輸出しまくってきた他国の事情など、ここではどうでもいい。



1-3)1
 この日本の縦構図の思考の傾向を、
 現代社会の形に置き直すと、上から次のように酷似する。


 上場企業経営幹部クラス
 経営側役職クラス(課長以上)
 一般正規社員層
 非正規層

 消費税を払うだけの非労働者層


 ‥とまぁこんな感じに映るかと。


> 経営者側の人材になるには、確実に大学もしくは修士課程を出ていることが求められる。


 勿論、例外もあるだろうが、実情はコネとやる気のどちらか。
 部下の功績は上司の実績。戦争がそもそもにしてその形。

 実績を顔にしたければ、それこそ起業しかない。
 起業して人気を博することが求められている。

 一見当たり前のようだが、

 中小企業への風当たりは決して優しくはない。
 それにしても、この縦構造は、
 今や世界的に共通したところであるかと。



1-3)2
 ついでに、悪ノリ半分の対比を並べてみよう。


 第一次信長包囲網。
 大坂冬の陣。
 黒船来航一回目。
 大本営イケイケの大東亜戦争初期。
 ‥昭和自民党全盛期。


 第二次信長包囲網。
 大坂夏の陣。
 黒船来航二回目。
 大本営敗退一色、大東亜戦争後期。
 ‥平成自民党不人気期。


> その後の顛末。


 豊臣秀吉が太閤になる。
 徳川家康が将軍になる。
 開国。文明開化。明治憲法。
 マッカーサーが民主主義憲法を日本にもたらす。
 ‥ジェイコブ・ロスチャイルドが日本に新憲法を要求?


 太閤検地、刀狩り。兵農分離。士族の固定化。
 五人組制度の延長から、士農工商が意識されるようになった‥?
 大名身分の華族化。平民解釈採用。
 一億層中流が唱えられるに至る。
 ‥勝ち組負け組が唱えられるに至る。格差の再発‥その後の展開は?


 秀吉の出自の弱さから集権化には至らず。五大老政により領地主権。
 幕府一極化を見せるものの藩主権は存続。ただし、お取り潰し等の強制措置あり。
 中央集権化するも、実質的には、財閥主権の傾向を見せる。
 東京一極化。大企業主軸化。
 ‥大企業病あるも多国籍企業主軸化。地方の没落。地域再生が課題。‥その後の展開は?


> 近隣外交。


 朝鮮出兵。
 表向きは鎖国策。
 朝鮮併合。
 朝鮮戦争勃発。軍事境界線の発生。在日の国内潜伏。
 在日の排除?‥大高句麗統一戦争勃発?


 キリシタン追放。(仏教回帰?、国風化したような気もするが‥)
 儒学、朱子学重視。
 日中戦争突入。
 中国共産党一党独裁台頭。政冷経熱。
 ‥中国動乱?により新しき中華国家の誕生?


> なかなかどうして、やっぱりパターンである。


 この歴史のパターンに習って伏線を構成すれば、小説等の話作りもリアルに盛り上がる?



1-3)3
 身分差というのはある意味で、思い込みから育っているようなところがある。
 だから、身分という奴は有るようにしかならない。
 無くそうとしても、私たち人類は、身分差のない思考というものになじみが薄い。

 それの意味合いからすれば、

 身分差があることに問題があるのではなく、
 身分差を意識するあまり、固定化させてしまう心理的傾向に課題があると言える。
 ‥そこには何であれ、不満が蓄積してしまうことから、いじめ・虐待へと繋がる。


> 身分差意識の根本と心理を改善させないことには、いじめ・虐待の問題も解消に向かわない。


 能力差があるのだから、生活レベルに差ができるのは成り行きでしかない。
 課題があるとすれば、どちらかに偏ることで共倒れにしかならないという現実である。
 そこに、勝手に身分差や不公平を私たちが創造してしまうのである。


 ‥明らかに、そこには自我の認識不足がある。


 (※ 自分にすぎた必要なき真似事ができないとばかりに、
 不満に染まっては精神上の不衛生。)


 「自分が何をしたいのか?」
 その問いに対して、ただぼんやりとしたままに時を過ごし、
 勝手に回りの雰囲気に飲み込まれ、漂うだけの平均的な幸福感に誘導されてしまう。
 
 そもそもにして、

 私たち人類は、競争を焚きつけられないと奮起しない傾向を抱え持つ。
 皆がその気になって乗ってこないと、誰も共通した価値を見いだそうとしない。
 共通した価値が生まれないと文化にはならないし、
 文化が形成されることで、格差も生ずる。それはある意味で自然体である。


> 世の中を動かす発言権が誰にあるのか?


 身分差を求めがちに陥るのも、その一点にあると言える。
 多くの民衆は、そんな発言権に興味などなく、
 楽しく平和に暮らせればそれで良いと思っている。

 それでも、なぜか‥

 秩序の乱れを正そうとすると、
 発言権の所在が求められ、その基準はどうしたってカリスマ人気(派閥)に陥る。
 私たち人類は、それ以外の選択支をまるで知らない。

 ‥かように思うところである。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 02:03 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする
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