2014年04月12日

【日記】平成コロジーと日本の自然体

1-4)記稿.2014/04/12
 ブログの整理中から一句であります。

平成コロジー

 歴史に表現しよう平成コロジー、そこから芽生える神州日本


> 平成+エコロジーで「平成コロジー」であります。


 「平成の今やらなくて、いつやるんですか!?」まぁそんな合言葉ですかね。
 ‥アベノミクスなんか、ほとほとどうでもよくなりそうな響きが良いかなと。



1-4)1
> 日本の自然体。


 日本の歴史が、聖徳太子を境目に半島や大陸からの文化色を超絶に帯びるようになり、
 気がついてみれば、和風とは何だったのかという疑問まで生ずる有り様の昨今‥。

 そもそもにして、

 そこから不自然が加わり、
 さらに戦後そしてバブル崩壊後と、不自然はさらに加速しました‥
 そこで、思い知らされたわけであります。

 「日本って何?」
 「日本人とは?」



1-4)2
 和を以て準えるなら、
 不公平、不均衡、差別の下に置かれた者が上にのし上がる。
 のし上がってみて、同じことを繰り返すばかりなら、同じことが繰り返される。

 実に公平です。それが日本という特殊な地場なのです。
 ‥ちゃんとひっくり返るんですからね。欧米とは大違いであります。

 そこから翻して遡れば、
 古代の純な日本人にも負があったということになります。


> 言うまでもありません。


 その当時の自然体が自然神や王を戴いたままに暮らす。
 そのように有り続けること自体が人間として不均衡を含むのです。
 どんなに善良で聡明な王であれ、民衆がその体制のままに暮らし続ける‥
 ‥果たしてそれが本当の意味で人間らしいのかというとどうでしょう?

 成長の見られない様に生きがいは生じ得ないのです。

 当然のこととして、外から来た珍しいものに目が奪われることになり、
 結果として主体が内から外へと向かわざるを得ません。
 ‥そして、和の何たるかを思い知るのです。



1-4)3
 在日の話を聞き囓れば囓るほどに、
 有史日本の知りうる範囲において、お上の血筋はほとほと外人で、
 日本の文化のそもそもは、訳の分からない成り行き任せの勢いだった観に驚かされます。

 何がしたかったわけでもない、実権を握ることしか頭になかった。

 下からのし上がっても、ふんぞり返れば引きずり下ろされるのです。
 上に上り詰めて、下だった頃の負の記憶を昇華して清められるかどうかです。
 ‥誰も手なんか貸してくれません。最終的には個々人の対峙なのですから。

 個々の対峙であっても、

 日々、己の内と向き合わずに過ごして、負をまき散らして増大させるばかりなら、
 個人の問題に収まらなくなるのは当然です。
 ‥結果、周りも巻き込まれるのです。

 巻き込まれないための秘訣は、それこそ日々己と向き合って生きていたかどうかです。
 己を通じて、物事を観察する上での公平に関心を抱いていたかです。
 (‥ただし、神にしか見えない比較観察の相対に晒されます。)


> この公平というのがまた難しい課題です。


 ‥とりあえず今、日本人はその公平の下に追いやられて、
 這いつくばっている層とそうでもない層がいるように見えています。

 何が良くなかったのかと言えば、

 楽に乗せられて無関心だったはずです。
 忙しさに魅せられて無関心だったはずです。

 頭で考えた善良な自己像なんか、何の評価の足しにもなりません。
 プライドばかりが身について半分妄想です。そんな正義は糞であります。
 ‥他人事ではありません自身のことです。


> バカとふつうに違いがあるとすれば、そこをどう理解しているかでしょう。


 そしてふつうなんかどこにも無いのです。
 誰しもが、奇人変人です。勝手にふつうを作り上げて悦に浸っているだけです。

 「ふつうなんだから大丈夫。ふつうであれば問題ない。」
 ‥そんな傾向を"ふつう麻薬"と呼んでも好いぐらいです。

 ふつうからステップアップするにしても、半分の妄想を捨てられるかどうかです。
 つまり、ふつうで無くても好いという理解です。
 それを得ずして、心の中に平穏は訪れません。公平も訪れないのです。

 ‥実に面白いトリックです。くだらないトリックです。でも難問です。



1-4)4
 平成コロジーは何も、エコロジーに関する技術だけを指すわけではありません。
 当然として、まわりがそれに興味関心を抱いて共に突き進まないのでは論外です。


> ‥すべてを取り上げられそうに成って、はじめてその気になる。


 取り上げられるまでもなく、日々淡々と成すべき事に筋を立てる‥
 日本と世界の違いを見ても、日本の方がそういう意味では先を行くのです。
 ‥日本人として日本を誇れるとしたら、そこぐらいでしょうか。


 しかしだからと言っても、まだまだなのが人間であります。


> 何をえらそうに、儲かったとか言って、他者から分捕った大きさを競って悦に入るのか?
> ほんと、解りませんな。


 分捕らないと回らない‥。
 分捕っても、差し引きトントンでゼロにするのがまた超絶で難問にあります。
 分捕らないというのはそういうことです。

 ‥ならば始めから取らなければ良いかというと、結局は頂くことになります。
 その分をどうにか還元しないままでは負を負うことになります。

 でも、負を負っているだけでもありません。
 与えさせるという所作が、与える側に徳をもたらしてもいるのです。

 「‥頂いているのに、与えてもいる。与えてばかりでも、頂いてばかりでもある。」
 そんな徳でも、

 「そんなの腹の足しにも、猫の手にもならねぇ」とケチを付ければ帳消しになるのです。
 ‥なんともったいない。
 それどころか、ケチを付けるばかりか、火を付けるなんて剣幕にもなろうものなら、
 自らを破滅に追い立てるようなものです。
 ‥なんと馬鹿馬鹿しい。

 でも、よくよく考えてみれば、
 その馬鹿馬鹿しいが存在しないと登場できない何かというのもあるわけです。
 ‥どこまでいっても与えているという連鎖にもなっています。


> でも、よーく考えてみましょう。


 どこに向かって与えているかです。そこが見えていないと亡者になるばかりです。
 そこの違いが分かるという意味でも、日本は世界より一歩先を行くのです。
 ‥日本人として、日本に誇りを抱けるのは、そういう部分なんだと思います。


> では問題です。世界中がそのレベルに達したら?


 なーに問題ありません。地球人としての誇りを感じられるようになるだけです。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:20 | Comment(0) | 日記/2014 | 更新情報をチェックする
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