2014年06月23日

[説才]愛・奪・恥は三つ巴の視点

1-6)記稿.2014/06/23
 世界の宗教的倫理として、与えることは正しく、奪うことは罪であるとの認知がされている。
 異論を唱えるつもりは無いが、逆の概念が存在していることは否定できない。
 ‥逆と言っても成否の逆では無い。心境の逆である。


> 与えられることは恥であり、奪うことはさらに恥である‥


 なぜ、このような恥の概念があるのかと言えば、
 それは自立が念頭にあるからであり、
 その地盤には、生きとし生けるものの共存と敬いがあるからだ。
 ‥これこそが古神道であり、世界の宗教とはまったく異なる民族性を育んできた。



1-6)1
 ところが、古神道の中に世界の宗教のそれを導入すると、
 相矛盾した心理状態が形成されることになる。
 ‥いわば、その矛盾を抱えているのが現在の神道であり、
 日本人の自然体が無信仰的日常に変わってしまった要因でもある。


 日本人の多くが、与えること(分け合い)が正しいと思う一方で、
 与えられ続けるだけを恥と思う傾向を抱く。

 与えられることのそれ自体は、お互い様の所がある故それ程では無いにせよ、
 お返しができないとか、世話になってばかりというのでは遠慮しがちである。
 ‥勿論、個人差はある。

 そしてまた、

 自立のルールが、インチキ経済の下に、
 健気にも競争して勝ち続けるとするルールに変わってしまっており、
 競争して勝った余裕から、再分配することの意義に違和感が付きまとうのだ。

 ‥そんな余裕など1%の者しか持ち得ない。
 多くは自らに褒美を与えることに手一杯であるか、権勢の維持に手一杯である。


> ‥なにゆえの競争だったろうか?


 そもそもは、輸入の概念だった。
 資本主義と共産主義という比較がもたらした意図不明な言い分である。
 その二つは見事に行き詰まりを見せ、支持を欠いている。
 なぜなら、統治ではなく支配が念頭にあったからだ。


> 繁栄をもたらすのは、競争ではなく調和と節度である。
> 公平をもたらすのは、分配ではなく誠意と汗である。


 ‥そこから外れた経済哲学など、恥であり糞である。



1-6)2
 しかし、調和と節度だけでは、革新など訪れようもない。
 誠意と汗だけでは、退屈なだけで学びとしてはちっともエキサイティングではない。
 少なくとも、現代の私たちにとって、古神道は原点であるにせよ未発酵にも映るのだ。

 ‥そもそもにおいて、

 古神道は、科学活用無き時代の智慧であり、
 日本の自然体ではあれども、世界の自然体としては成り立つものではない。
 ‥もし、科学抜きで成り立たせようとすれば、世界人口には限界が唱えられるばかりとなる。


> 世界の多くは依存型であり、
> 自立するにせよ、多少は妖精や小人が手伝ってくれるようでないとダメなのだ。


 共存を考えた時、
 どこまでを自立と言い、どこまでを切磋琢磨とするかの定義も哲学も無い。
 競争を上げてもそうだ。
 どこまでを勝利と言い、どこまで頑張れば良しとされるべきかの定義も哲学も無い。

 すべては、勝手気ままに解釈がされるばかりで、統制などしようがない。
 しかし、統制は成り立たずとも統治なら望めるはずである。


 ‥その統治なり支配の側が、


 自分たちの言い渡し事は正しく、
 間違いなどあろうはずが無いとするプライドを突き立てることで、すべては崩壊を始める。
 「武士に二言は無い‥」は、まさにそれである。

 誰にだって手違いや間違い、勘違いは生ずるのだ。
 まるで、何様と言わんばかりの誤解で成り立っているのが、統治に期待してしまう心理である。

 ‥如何様にも、人類の多くが依存型であるゆえの顛末と言えば、それっきりの話だ。
 (とくに、治安なり保安なりの人権保障の面での依存である)

 そもそもにして、管理の側が、
 いつまでも奪う立ち位置にふんぞり返っていてはそうなるばかりである。
 「いつまで奪うシステム(税制度)に依存していれば気が済むのか?」
 私たちは、有史から放置されてきたそれぞれの認識の誤りと未熟にもっと注目すべきである。


> ‥詰まるところ、神々(上々)とて興味本位に思惟する好奇心を発する。
> だからこそ、誰しもは堂々と自らの意見を発する自由を担う。
> それの意味で、意見の自由は義務である。(愚痴等の感情発散の意味ではない)



1-6)3
 話をもとにもどそう。

 意見の自由は義務と言っても、
 言い負けることは恥であるとする心理もまた生ずる‥
 ‥そこには共存の意味が理解されていない。

 一方で、競争社会では、言い負けることはますます恥となり、
 またそうでなくても、勝手に格好良く振る舞いたいと思い込んでおれば、
 自ら敗れて、相手を怨むばかりとなり、自然体を見失うことになる。


> そういう時こそ、馬鹿の一つ覚えみたいに、
> 与え切らんばかりの愚直を唱える必要にもなろうか。
> 転ずれば、素直に頂き切る感謝の気持ちにもなろうか。


 しかし、すべて命に向かって意見の自由は義務と言い渡してあるのだから、
 悪巧みばかりを主張する輩もうようよしていることになる。
 ‥それはもう、呆れんばかりである。


> まるで、奪うことの正しさが宇宙の中で推奨されているかのようでもある。


 与えるばかりの主張があるなら、奪うばかりの主張があっても良い。
 ‥力こそ正義の論を支持する輩はまさにそれである。

 文化の形成される過程において、何がベストであるかなどという解釈は存在しない。
 目的や方針、方向性の微調整に適っているか否かである。

 力こそ正義を導入することで過程の辻褄が成り立つなら、
 それのエネルギーもまた有効活用されることになろうか。



1-6)4
 与えることだけを良しとする者は、与えられる側の意思の多様性を重んじない。
 奪うだけを良しとする者は、奪われる側の意思の多様性を重んじない。
 恥を宗とする者は、理想から外れた側の意思の多様性を重んじない。

 与えるだけの考えの者も、奪うだけの考えの者も、
 成り行き任せなだけで、理想などとくに持ち得ていない。
 恥を宗とする者だけが、理想実現への試みに興味津々だ。


> 与えるだけの者ばかりでは成り立たないから、必然的に奪う存在と組することになる。
> 恥を宗とする者ばかりが集まると、変化に乏しく拡大的に行き詰まる。


 一旦、テーマとして完成を見てしまうと、崩し難くなる。
 そこを無理に改善しようとしても改悪にしか成らない。
 競争原理の中で、膨張し続けるための方策に未来など無い、壊れるばかりである。
 未来とは、全体における調和であり、個の勝手な力の創造では無い。

 愛と奪と恥の関係は、
 そこのバランスを調整するための組み合わせであり、
 結果的に、三竦みの形態がそこに登場することになった。


 恥を唱える者の割合は、
 十人に一人、百人に一人、千人に一人‥
 圧倒的、論に長けている者が適当だろうか。

 ただし、恥を唱える者が一人も居なくなると、世の中がまとまる可能性は皆無となる。
 ‥そのような世界において、民主主義の多数決に何の意味も無い。


> 世界が武士道を理解したというのなら、
> 恥の概念にも理解を示してこそであろうか‥


 そうでない武士道への賞賛など、ただの美術鑑賞の如しである。



1-6)5
 多数決の儀に意味を持たせるためにも、日の国では神を立ててきた。
 神の意を受け継ぐ者としての巫女または天皇である。


> しかしどうか、


 古神道は多神教なのに、法治的制度にしてしまえば、途端に一神教の如しである。
 受け継ぐ者がどうして血筋同士の見合い同然になってしまうのだろうか‥
 どこの馬の骨という表現こそ、民衆を下げてみた見方になる。

 より善き国造りをしようとする時、優秀な者を取り立てて、
 次第に交わっていく形こそが多神教の形‥そう思うところである。

 しかし、そもそもにして、

 天皇を維持する長期的視野において、一夫一妻などというのは成り立たない事情がある。
 それでも、一妻か多妻かを選ぶのは本人の選択という事に成る。


> 神を戴く意として、


 神に何を求めるべきかという心理が常に働いてしまう‥
 それが民衆の側に根付いている期待感である。
 ‥はっきいってそんなのは無駄なだけの解釈である。

 神を立てるとは、意見をまとめる上での柱が求められるという意であり、
 絶対的権限の上に立って、国の隆盛を執り仕切るとするような意味では無い。
 国の隆盛を行うべきは民であり、王はそれの舵取り役に過ぎない。

 舵取りは、舵になければ動力でもない、修理屋でもないし設計屋でもない大工でもない。

 船長(天上界の意向)ともなると尚のこと、舟の進行と運営をうかがうばかりである。


> 古神道と科学を組み合わせた天地創造たる視点を神々が抱く時、


 意見は様々、科学実験の如しである。
 やってみたいバリエーションなんぞ、それこそ宇宙大の如しである。

 その時、意見をまとめ上げて限定してしまえば、
 ‥誰がわざわざ記憶を失ってまで生まれてきたいと思うだろうか?

 物事を公平に進める上でも、限定などできないのだ。

 ただし、誰がどこに生まれるべきで、何をすべきかの灯台役は必要である。
 それの意味において、権限を有する計画側の意図というものは往往として備わる。

 しかしそれにしたって、権限を与えるためではない。
 するべきことをする責任が与えられるばかりである。
 ‥条件の良いところに生まれ落ちるとは、それ以外に意味などない。
 ‥条件が良すぎれば使い物にならない場合もあろうか、その逆も然りである。



1-6)6
 仮に、条件の良いところに生まれ落ちて、
 自らの性格に疑問を感じ入るなら、それこそ討たれることに定めがあると疑わざるを得まい。
 ‥そう思って、進むのと進まないのとでは、結果はまるで異なろうか。

 石橋を叩いて渡らないままに居ても、まぁ問題なかろう。
 どちらにしろ討たれて滅びる方向にある点において、平に同じである。
 ‥しかし、生き延びるとする選択肢がまるでないわけではない。


> それこそ、争わずに、譲る姿勢が肝心だと言うことだ。
> それと、出すぎたことをしでかさないでいることだ。


 間違いを正す姿勢無き輩など、討たれるばかりである。


> この時、間違いとは何かが、常にテーマとなる。


 権利を担う者同士が寄り集まって、権勢の維持拡張を唱えれば、
 奪い合いこそが正であり、様子見のまま現状維持などとはお門違いと見なされるばかりだ。

 それにしたって、そこにあるのは調和ではない。
 組織の身勝手があるばかりで、大衆への配慮など欠くばかりである。

 全体としての調和を目指してこそ、
 愛・奪・恥の三つ巴は許されるところであり、
 そこから外れていくばかりなら、取り上げられるだけである。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:36 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。