2014年06月25日

[説才]俺的633制改革案→464制&大学は専攻のみ

1-3)記稿.2014/06/25
 10歳年齢までを初等教育(男女共学)
 11歳年齢から16才年齢までを中等教育(男女別学)
 17才年齢から20才年齢までを高等教育(男女共学)


 中等教育は男女別々とし、クラス分けを成績順とする。
 成績順とすることで、成績の下のクラスに対して教師増にして教える体制を組む。
 上のクラスほど手間が掛からないので、クラス単位で教員配置に緩急制度を設けることが可能。

 当然、教師は上のクラスと下のクラスとで同じ授業をするような馬鹿はできない。
 ‥どちら共に工夫が求められるので、その工夫を共有することで教員の質の低下を防止する。


 高等教育の内容は、大学教養課程内容までを含むとする。
 ここからは飛び級を認める単位制とし、大学は専攻コースのみで済ませることが可能になる。

 このような状況が現れると、
 大学は学校単位で選ぶ時代から、教授との師弟関係を得るのが流れになる。
 ‥そうなると、どの研究室に入るかが大学に行く名目になる。
 ‥ブログの項目に、教授なる項目が登場してもおかしくない。



1-3)1
 初等教育は、ゆとりと詰め込みの半々としたい。
 いわゆる境目のない教室と、席について受ける授業の両方である。
 ‥例えるなら、
 公文式のやり方と、理科や社会に関する映像を見ながら進める授業との交互切り替えである。

 中等教育は、詰め込みが中心となる。
 歳を重ねてみると、あの時期の詰め込みが如何に詰め込みに最適な時期だったかと思う限りだ。

 高等教育を単位制にすると、初等教育のそれにまた戻る感じだろうか。
 それでも、詰め込みを基準とすると教室単位になるし、
 選択制を重視すると教室単位を崩さざるを得ない。
 ‥どちらの方が学びやすいかは、個人差があるだろうから、何とも言えない。
 ‥学風容認と言った次第だろうか。



1-3)2
 10才を過ぎると、性的な変化が見られる。
 性教育をするにも、男女別々の方が、教える側の都合としても適っている。

 外国語教育をするにしても、中等教育で会話を中心に置き、
 高等教育で文法を中心に据えれば良い。

 例えば、マンガの台詞を外国語で演じさせるなどである。
 似たようなシーン毎の使い分けをそれぞれのタイトルから持ってきて理解させるのだ。
 ‥そんな演劇風なお馬鹿なやる気も、色気づいてくると個人差が出てくる。
 丁度、今システムの高校に移る頃がやる気の境目だろうか。


> そして花の青春時代真っ盛りに、再度男女共学だ。
> そこでの出会いがそのまま一生のパートナーになる率はグッと高くなるかも知れない。


 ‥なぜ、中等教育を男女別々にするべきかというと

 この頃の年頃ほど、男の中でどの位置に居るかが気になる時節だ。
 女にしてみれば、その時期にどのような環境にいたかが一生を左右する。

 男にしてみれば、女の下に自分の順位が来るとか、兎に角うざいのである。
 何はともあれ、異性に気兼ねなく、自分の立ち位置が知りたいと言った欲求に駆られるのだ。
 ‥俺は女ではないので、その辺の女の都合など知らん。
 ‥これはたぶん動物学的な問題であると思う。

 兎に角、この時期に男女を分けることで、学区が村社会の如しになる。
 その学区がどんな空気に包まれていたかが、地域ごとの特色を見いだすことになるはずだ。
 ‥例えば、ヤバイ語しか使わない女子校なんか、男からしてみればうんざりだ。
 ‥例えば、男塾みたいな空気を醸し出している男子校とかな。ある意味で呆然だ。

 まぁ、そんな感じで若者のその後が占えそうな校風の復活を期待して良いはずだ。
 上からのシステムだけでは校風は生まれない。それが今も昔も変わらないポイントである。
 ‥システムの役割は、発芽できる状況を推すことだけである。



1-3)3
 中等教育から高等教育に移行する場合のそれを受験とするべきか、
 それとも成績順に分けている点をフルに活用するべきかは、何とも言えない。

 なぜなら、高等教育における飛び級を認めるとすれば、受験の意味もまた違ってくる。

 さらに、大学の在り方が、研究室単位で解釈されるようになると、
 研究室に入れるかどうかは、成績よりもその気とやる気の問題だ。


> 飛び級を許可する役割として、


 さっさと単位を取得してしまえばさえ、とりあえず修了資格が得られる。
 つまり、起業するとか家業の修行に入るとか、
 その辺りの都合も兼ねた見解でもある。(四年の期間は学祭に参加するべしとかな。)
 ‥反対に、どこぞで働きながら、四年以上を掛けてのんびり単位を取得する選択肢でもある。
 ‥兎に角、思春期の盛りになると、詰め込みの選択肢は個人差が激しく馴染まない。


> 義務教育とは、文化を担う人材を育成するのがその目的であって、
> 何も競争に勝つための国策などと言うカビの生えた時代を続けるための教育が目的ではない。


 ‥どうせ、一生が勉強である。

 そこを理解して頂く上でも、
 発行権の活用の在り方を押さえずして、教育論もまた成り立たないのである。

 いいじゃないですか、この教育制度の流れに自分発行を重ねれば、
 若者同士の同棲暮らしなどと言わずに、とにかく夫婦生活が成り立つってわけですな。
 ‥旦那は学生。(爆)
 ‥ママは学生。(爆)

 ただし、自分発行できるのは二十歳から。

posted by 木田舎滝ゆる里 at 10:33 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする
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