2014年07月01日

[仮説]潜在意識をサーチする能力とは、味覚(食事)ならぬ気覚(呼吸)である

1-5)記稿.2014/07/01
 宇宙全史の著者は、サニワ(神を降ろす媒体)と聞き手で構成されている。
 今回の黙示録を降ろしたのもこの二人であり、
 そのサニワの潜在意識サーチ能力は陰始を上回るものがあるという。

 そんな似た者同士の特技の中に、

 疲れたらこそっとエネルギーを頂いてしまえる能力があるという。
 「20年後世界人口は半分になる」の中でそのように紹介されていた。

 ‥ただし、宇宙全史のサニワの場合、
 直ぐに反作用が体に現れて、調子こいて頂ける代物でないそうだ。


> この潜在意識サーチ能力とエネルギー吸収と体内反作用はセットである。
> ‥そう考えた時、宇宙のエネルギー循環における基本的なメカニズムが浮かび上がった。



1-5)1
 結論から書くとまずこうなる。

 潜在能力をサーチする能力を味覚と考える。(嗅覚でもいい)
 味覚があるからこそ、味の違いが分かる。味の違いを調べようとする。
 結果として、科学してみようとする意識も芽生える。

 だから、

 味覚がある以上、頂いているということでもある。
 結果として、潜在意識等の種類や違いが解るようになった‥


> サニワとは、相手の潜在意識を味見(嗅ぎ分け)できる才能と言うことになる。


 勿論、初期段階において味見をしているという感覚はない。
 神が降りてくると心地が良いとか、あの神を降ろすと調子が悪くなる‥
 なんて感じだ。
 ‥それはすでに、降ろすエネルギーの一部を頂いているという形を有している。


> 頂いているからこそ、その違いが解るのだ。(わかるようになるということか‥)


 頂く形である以上、吸ったら吐く必要がある。
 吐いたら、吐きっぱなしではダメだ、掃除も同時に行う必要がある。
 (放っていてもまた吸わざるを得ない。その繰り返しだ)

 ‥だから、無意識のままなら、
 吸いたくなくても、溜め込んだままに踏ん張ろうとする形になり、
 それが反作用になって、だからこそ、陰糸の死にたい願望にも繋がることになるだろうか。


 呼吸の形で考えるとそうなる。


 その様子を日常的に表現するなら、味覚(食事)ならぬ気覚(呼吸)と言えるだろう。
 ‥吐くという感覚になると、それを掃除する考えを持つ者はほとんど居ない。

 ‥しかし、日常の食事の後の話になると、そうは行かない。

 出さないと体調に影響が出るし、
 出せば出したで、臭うし、きたならしいし、そのままに放置しようものなら、
 ‥中世ヨーロッパの街の隅山う○こ、道中う○この光景と化するのである。



1-5)2
> サニワが乗っ取られる善悪の差とは、


 吸収したエネルギーを溜め込む体質か、そうで無かったかの違いである。
 ‥肉体的にもそういう体質の違いというのがある。才能ともいえるだろう。
 ‥ならば、気覚に対しても同様と言えようか。

 溜め込んでしまうキャパが大きければ大きいほど、
 その性格もブレンドされて変貌して行くよすががあると言えるだろう。
 (‥奪ったものをコントロールできる体質とできない体質の差)

 そうで無い場合は、気の下痢や便秘状態に陥って途端に調子が悪くなる‥
 すでにそういう体質になっていると言うことだ。(奪うことのできない体質)


 ‥そのような形はすでに、波動が粗いとか精妙とか、独特の感性として表現されている。


 日常においても、好き嫌いを無理に溜め込めば、人格の崩壊にだってなりかねない。
 だからと言って、好きな物ばかりに偏るだけでは、
 種別の枠と奥行きを知らずに感知したつもりになるばかりで、妄想同然に陥りかねない。

 ‥サニワ体質もますます高性能になると、その違いに敏感になるということだ。

 (物事に対する関心に好き嫌いが激しい=知覚できるキャパが狭い。偏っている。)
 (‥当の本人が、程度それで十分と思っているなら、まぁ、十分なのだろう。)
 (‥無理してまで狂う必要はない。)



1-5)3
 私たちは日常、エネルギーを溜め込むことばかりに注目している。
 今現在の私たちの文明は、言わずともその傾向だ。

 しかし、頂いてばかりに居ると、狂うということだ。穢れるということだ。

 ‥だから、吸ったら吐き出すことを心掛ける認知が求められる。
 ‥その上で、吸った後はしっかりと吐き出して掃除する必要がある。


> これは何にでも通じている事実でもある。


 頂いたら、返さなければならない。
 返す上で、より綺麗にする必要がある。
 つまり、感謝の気持ちが欠かせないということである。

 ‥如何なるエネルギーに対しても同様だ。
 分け隔てなく感謝の気持ちを添えてお返しする必要がある。


> そうしないと自からが穢れるということである。


 知覚することも気覚することもなんでも一緒、
 感じられるすべては、頂いている形にあると思うべし。
 ‥だから、すべてに感謝してお返ししていく心構えが、自らを健やかにすることに繋がる。

 その上で、

 感じられない何かに感謝していく姿勢を、挑戦というのだろう。
 挑戦しないと未来が頂けないということか‥
 (可能性は無限大である、だからと言っても必ずしもすべてが必要なわけではない。)
 (挑戦して獲得する自由はあって好し、しかし普及させるまでの必要はない。)


> そういう経済こそ、真打ちに成るということだ。



1-5)4
 裏返せば、お返ししていく創造力、企画力こそ、健やかさの源になるだろうか。

 ‥ある意味で、自己満足で押しつけがましいだけに成りがちである。
 ‥ある意味で、自らを健やかに保つ上での勝手ということか。


> ゆえに、クレーマーでさえ必要とする構図にもなって来る。
> 人の注意も聞き入れて、感謝してお返ししていく。(改善)


 文明的に言えば、
 感謝と改善の気概のない国家や生命は滅びる‥其は宇宙の形ということになる。
 ‥基本形に逆らっても意味なし。


 これまでの人類の文明は、人類のことしか頭にない方向だった。
 それの人類のと言っても「組織の‥」という限定された方向だった。
 だから滅びるのだ。脱皮が求められている。
 ‥生きとし生けるものすべてに対する感謝の形への改善。公平な形への見直しと反省。

 人口が半分になるというお達しは、
 半分の人間が人間勝手なままだったという知らせでもある。
 ‥また人類の半分が、それの反省ができないという意味でもある。



1-5)5
 勘違いしてもらって困るのは、
 頂いた以上をお返しする必要は無いと言うことだ。

 もちろん、個人差はあるだろう。解釈の仕方も十人十色だ。

 それでも、頂いた以上をお返しする必要は無い。
 ‥その度合いが違うのに、あーだこーだと比較される謂われもない。


> 皆でそこを解りやすくする上でも、


 まずは、十分に頂ける形というのが求められる。
 十分に育つ上でも、十分な栄養が欠かせないのと同じである。
 ‥そこを外していては、お返しの形もしおしおにならざるを得ない。


> 今時の栄養を与えずに甘くなれと言わんばかりのトマト栽培は、
> ある意味で、搾取の象徴、搾取の迎合栽培と言わざるを得ない。


 「甘さばかりに傾倒する野菜や果物に、本当の意味での滋養なんかあるのか?」

 糖度を強調したものを口にばかりしていても、体調の調整にはならないと思う。
 ‥自由に生かせてみて、そうなったのなら話は別である。
 ‥そうなるばかりになったのは、人類だけである。

 自然界から見て、それは腐りかけの状態と言えるだろう。
 本来の甘さばかりとは腐りかけであって、新鮮とは限らないのだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:17 | Comment(0) | 黙示録 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。