2014年07月02日

[メモ]零式経済をもっと簡潔に

1-5)記稿.2014/07/02
 「20年後世界人口は半分になる」の内容を吟味すると、
 零式経済における評価の考えをもっと単純にしないと上手く行きそうにありません。


> なにしろ、


 すこぶる健康になると言うことは、医学の日常は研究が中心になり、
 ウマい食い物が勝手に育って、農家の仕事より評判が上なら何を評価するのかの疑問が湧き、
 自給自足が日常になれば、対象となる会社構造は、チーム構成で溢れる傾向になるからです。

 そんな状況に、公平に審査するのは困難と言えるでしょう。

 それでも、ギャンブルの辻褄を考えれば、G弊とS弊の差を演出できなければ成り立ちません。
 ‥体の良い退屈しのぎがないと、狂っちまう人は狂い出しますからね。
 ‥ギャンブル天下一、ガチで有りだと思っております。

 ‥とりあえず、自分発行の効果やらロボット化の効果などから、
 人口の3分の1が頑張れば、他も食っていける状態になるかと思います。
 そんな状況で、人生でやりたいことが見つからないって、そりゃ地獄でしょう。


> 夢中になれる仕掛けは、一つでも多くあった方が良いに決まってます。



1-5)1
 そもそも自分発行する上で欠かせない論点として、
 自分の生活価値=世間または日常に対して価値を付けられる作業が成り立つべきです。

 自分の価値に金額を付けるのは歯がゆくとも、
 自分の生活ぶりに価値を付けるのは何のジレンマも起きないはずです。
 ‥むしろそう有れた方が、民衆の価格価値に対する感想が丸裸にできることになります。


> ならば、値段は生産・サービス側だけでなく、消費側もまた付けられるべきであります。


 買い手が値段を付けることで、そのままに価値評価される形が演出されるのです。

 ‥例えば、
 春季と秋季は、消費側が値段を付け、
 夏季と冬季は、生産・サービス側が値段を付ける‥まぁそんな感じでしょうか。

 春と秋は、お客が値段を言い渡し、
 夏と冬は、店頭価格、窓口価格に従わなければなりません。

 この結果、消費側の予想より、夏と冬に値段を高く付けてきたなら、
 赤字もしくはサービス制限がされているものと考えるべきであり、
 ‥消費の側も、その辺を吟味すべきと言うことになりそうです。

 ですが、あくまで、春と秋には、評価を申し渡すべきが主張と言えるでしょう。
 (‥無論、情けもありかと)


> 経営側は、それで赤字を出すようなら、自分発行をもっと減らして経営をすべきでしょうし、
> 売り上げが伸びるようなら、夏と冬の価格を下げてアピールすべきにもなります。


 お互いに自分発行を使い切らなければなりませんから、
 自然と、春<秋、夏<冬の具合に価格の上昇と変化が現れることになりそうです。



1-5)2
 そんな具合になりますと、
 それでも儲かっちゃうところと、そうでないところの差は、
 ‥支持の大きさの違いということになるかと思います。


> 評価のG弊は、あくまで労働保障と評価表彰の金額です。


 なので、どんなに頑張っても金額としては一定額にしかなりません。(評価そのものは別)
 一定額=横並びでは、協調性を得ることはできても、積極性を得られるかどうかは疑問です。
 ‥細かくても100段階を越えると全体として不評に陥ります。

 その分を補うのは、
 やはり‥活発に利用されているという実態性そのものから賄った方が無難です。


> 自分発行できる上に、自分で値段を付けられる時期まであるとなれば、


 無駄に自分発行の金額を増やす必要もありませんし、
 試しにケチってみても、次回・次年度に羽振りの良いところを演じればいいわけですから、
 ‥とくに、怨まれるようなこともないと思います。


> その上で、年度ごとの販売数が横ばいであるにも関わらず、


 売り上げ金額だけが異様に波打っている統計が得られたとして、どう判断されるかです。
 まぁ要するに、自分発行の金額の調整弁として扱われており、且つ、評価も右往左往にある‥
 ‥という次第になろうかと思われます。


> ‥人気があるのかないのかが、その数字だけからははっきりしませんが、
> 赤字にない状況なら、まずまずと言えるでしょう。



1-5)3
> 商売する上での思惑としては、


 価格の決定権が得られる時期に新商品を売り出したいところであり、

 ‥右肩上がりに売り上げを伸ばす必要も無いことから、
 価格決定権のない時期に如何なるサービスを演出していくか‥になるでしょう。


> 経営の側に価格決定権の得られない時期の仕組みを申し渡された時点で、
> 右肩上がりは成り立ちません。(‥成り立たんでしょう)


 仮に、成り立っていたとしたら、
 民衆がその価格に納得している上に、常に贔屓しているということです。
 ‥それはそれで、もの凄いことになります。


 もっとも、自分発行できる段階で、
 価格をケチる必要もない点を、大衆がそこをどう考えるかです。
 ‥ほめる意味で用いることも可能ですし、けなす意味で用いることも可能です。
 ‥自分を演出する上でも使えそうです。

 ‥そもそも納得できないサービスに対しては、店側の提示価格になんか従いたくわけですし、
 そういう自由が利く時期があることは、社会全体に対して良い刺激になるはずです。
 結果として、使い切り調整として、贔屓のところの売り上げが跳ね上がる形になるかと。


> こんな仕組みになりますと、赤字続きなら廃業せよというのもどうかと思います。


 なにしろ、消費側の価値と経営側の価値が整わないと言うこと自体がそもそもにして屈辱です。
 その屈辱に無頓着ならしょうがありません。そのままに廃れるばかりでしょう。

 ‥どこまで、どのように挑戦していくかは、お互い様ですので、
 赤字経営に対しての廃業規定を法規上書き記すのもどうかと言う次第になるかと思います。
 どちらかと言えば、基本的な在り方や助けを得る上でのうんちくを法に書き記すべきかと。



1-5)4
 機械化、ロボット化、その上地球側からのパワー供給により、
 労働の形そのものが激減するはずです。

 大方、誰しもが単純作業をやりたがらなくなると思います。

 その上で、やる気がでる単純作業となると、
 それこそ自分でやりたい作業と言うことになるでしょうか‥


> その手の変化は必ず起こります。(世界中で)


 ‥そうなろうなら、
 儲からない仕事(±0にならない仕事)でもやり続けたいなら、
 し続けて頂くより他は有りません。

 その手の方々にとって、社会的な評価などどうでもよく、
 そういう自由も成り立ってこそになるかと思います。

 中には知識教養を得ることばかりに興味津々で、
 万年学生のままに過ごしてみたいなんて、人生計画も有りになるかと思います。

 ‥スポーツ選手とか学者とかの職として考えずとも、
 生徒、学生のままの発想でもそれが成り立つ、許される‥そうでもないと、
 閉じこもりと、勝手気ままな路上遊戯者ばかりが増えてしまう地域も生じかねません。


> もっとも、


 お金が自由に使える状態での閉じ困りともなると、
 相当なフリースタイルと言うことになりますけどね。
 ‥どちらかといえば、路上遊戯者ばかりになりかねない部分をどうしていくかだと思います。


> 無職として扱い続けるのか、学生なり研究生の扱いにして責任を担って頂くのか‥
> 扱いもアイデア次第、お互いに敬いあればこそに成るかと存じます。



1-5)5
 時代が黙示録通りに混沌とした場合、零式経済の仕組みを展開するにせよ、
 如何にしてネット回線を確保していくかが課題になるかと思います。


> まぁこの点は状況次第になりますので、何とも申し上げられません。


 通帳に書き込む方式にしろ、生産できなければ事は始められません。
 その時は、それこそ物々交換かと思われます。
 だからと言って、そのままに進むとはとても思えません。

 ‥それが現在の人類の程度です。

 しかも世界的な取引ともなれば尚のこと、まだまだ30~35億も健在という状況です。
 宇宙人が理想として語るようなお花畑の分配社会になるとはとても思えません。

 30億と言ったら、米ソ冷戦の経済観に近いのかも知れませんが、
 多少助かる人口が増えて40億にもなれば、その規模を越え出します。
 ‥とてもではありませんが、物々交換なんてすぐにしおしおに成りかねない数字かと。

 その時、資本主義しか口にできない欧米が、
 どれほどに生き残れているのかは知りませんが、
 1割が健在の状況でも、あっという間に、話し合いは決裂しそうです。


> 言うまでもなく、共生の保てる活性、協調が得られる活性‥


 そんなニュアンスからの提案でないと成り立たないだろうと考えます。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:51 | Comment(0) | …零戻経済思考の足跡 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。