2014年07月16日

[メモ]継貨、則貨、雲貨(通貨を葬ろう!)

1-5)記稿.2014/07/16
 政府がビットコインの見解として「あれは通貨に非ず」の物言いをした‥
 著生はそれに頭に来ていたので、「通貨」を言語から葬り去ることに決めた。

 ‥つまり死語化である。

 決めたと言っても、現段階においてできることは、論理の中での話になるが、
 それにしてもなかなかに代用となる響きが整わないでいた。


> ついでに、


 オイコノミヤで「お金の正体」を開き直ったように説明していたのを目にして呆れたよ‥

 その説明の中に、中世の金細工師とか聞き慣れた単語が出始めたが、
 まだまだ発行権の実際について事細かに語りたくないらしく、

 如何に、国債が銀行券より価値があるものかという、奇妙奇天烈な説明に始終していた。

 こちらまでが混乱しかねない嘘八百に、呆れて口が塞がらないとはこのことである。
 ‥そのうち、その霞ヶ関文学さながらの工作解説をレポートにしてまとめようと思う。



1-5)1
 零式経済の中で語られるお金の一般呼称として、継貨(けいか)を用いるとする。
 継貨には、G弊P弊S弊C弊の4つの種類が有り、それぞれのルールの元に用いられる。

 この一見複雑そうな種類の必要は、
 お金の欠点と文化の継続をできる限り改善するための一つの形になっている。
 (ポイントがその店でしか使えないお金である点をよくよく吟味して頂ければ何でもない)


> 法規上、継貨を表現する場合、


 それぞれのルールを意図した法規上の総称として、則貨(そくか)を用いるとする。
 また、同時に技術的な表記として雲貨(うんか)を用いるとする。

 則貨は、万民主権発行の理想から、
 それぞれの自治が管理・通信・記録を担い、それの公的機関を金慮と称する。
 尚、則貨は、管理運営上サーバー内に収まった則貨データをとくに技術呼称として雲貨と呼ぶ。
 悪意等により雲貨の改ざん事故が起ころうとも、継貨全般に伴う則貨価値と権利は保障される。


> 継貨の発行は、万民の権利であると同時に生活意欲に帰属する。
> 則貨として維持管理されるべき事柄が、公務の形にならざるを得ないのは仕方がない


 雲貨技術のすべてはフリー公開されるべきである。
 ただし、偽造防止のためにも、暗号化に関わる部分等は秘守されるべきである。



1-5)2
 ‥こんな風に表記を統一せずに意味のトーンを微妙に変えて表現せざるを得ないのも、
 多少なりとも、データをお金として扱え切れない感覚が伴うからでしょう。


 技術の継続、生活の継続が続かないと維持できない仕組みに置かれたお金。もとい消費活動。
 ゆえに継貨。

 それぞれの役割としてのルールが事細かに振り分けられていて、
 法規が統一されていないと共有できない仕組みに置かれたお金。もとい零式経済。
 ゆえに則貨。

 クラウド技術を用いて運営管理せざるを得ない‥実際はデータ形状にあるだけのお金。
 ゆえに雲貨。


> それぞれの違いを意図して表現しようとすると


 ‥どうしようもなく、
 通貨などという一つの権利の主張しか許さないような定義では、
 とてもとても、使いづらくて頂けないと言うことであります。

 かといって、

 電貨と表してみても、
 発行した口座のままの形なのか、電子マネーの形なのか、ポイントなのか区別できません。


> 法規上とくに必要とされるのは、発行の権限の在り方です。
> そこをどう表現しておくかです。



1-5)3
 ‥こうなって来ますと、通貨発行権の文句が化石の戯言に見えてきます。
 通貨なる表現価値を成り立たせて来たのは、
 国際金融資本の組織を支持していたというそれだけです。


> その意味で言えば、これら継貨の表現を認知して頂く上でも、


 国際的な賛同と協調が求められる点は、いずれにせよ同じになります。
 個人的な実力としましては、その辺りの論と行動力は持ち合わせておりませんので、
 ‥こういう未来ベクトルもあるという理解までしか導けないのが限度かと。(哲学ですから)



1-5)4
> どちらにせよお金なんて文化は、


 人類が総じて超人になればなるほど、衣食住に関心が遠のくほどになればなるほど、
 意味の無い廃れた文化になっていくものです。


 創造的なインスピレーションだけが欲しいと思う段階にもなると、
 お金や物を介した物々交換なんてなんの意味も無きことです。
 ‥実際、インスピレーションとの交換だけがしたい欲求に、お金は無意味です。


 「皆さんは、自分たちの暮らしぶりが、そういう段階にあると自覚できますか?」


 改善や見直しばかりの時間経過な想像力しか発揮できぬおつむやハートの有り体で、
 そこを一足跳びに期待しているという矛盾に気がつくべきであります。

 まだまだお金の文化を改善して、
 お金との交換を楽しみたいと思う消費依存型の段階である点を、まずは自覚しましょう。


> ‥インスピレーションを得る上でも、人の間に居ないのでは意味が無いのです。
> 人としての自覚とは、そういう方向性にあると考えます。


 所詮お金とは、人としてあるべき辻褄を、
 科学的経済的に公平さを手ほどきをする上での一つの手段・形にすぎないのです。

 超人になりすぎて、人との交流が文化レベルで大方不要になりました‥
 そう考えた時、発狂しかねないとの自覚を持つことは、人として普通です。
 (‥超人を望むと言うことは、人を辞めるという決意でもあります)


 「超人を望むのか?
  それとも、暮らしの中のおかしみを望むのか?」

 ‥どちらか一つ、腹を決めて、お金なる特性と向き合いましょう。



1-5)5
 超人にあらざるゆえに不足、ゆえの物々交換。ゆえのお金の必要と利便。
 超人にあらざるゆえの不足、欠陥。欠陥ゆえの文化性、改善、何処まで行っても未完成。
 未完成だからこそ政も成り立つ。それが人の間の集まり。

 楽しむのか苦しむのか‥

 お金の形に問題があると思う前に、
 自らの解釈の一つ一つ(常識)に、疑問を持って望むべきである。


> その上で、


 欠陥につけ込んだ目論見を悪と呼ぶならそれはそれだし、
 欠陥につけ込まずに付き合っていくことを善と呼ぶなら、それはそれだし、
 ‥どちらにせよ、他人の理解に強制はできないが、共生を求めることはできる。

 ‥でもきちんと守るかどうかなどお互いに保証などない。

 それでも、偏ることで良心が転覆する過程を私たちはすでに経験済みだ。(グローバル競争)
 だったら、キッチリ基本的なルールを改善して事を進めるのが筋というものである。


> 改善も改悪も言葉から、
> 言葉が同じままである内は、法規文化上ちっとも為されることがない。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:12 | Comment(0) | …零戻経済思考の足跡 | 更新情報をチェックする
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