2014年08月04日

【日記】礼こそ日本の本質、しかし‥

1-3)記稿.2014/08/04
 礼こそ日本の本質、しかし‥

 奇しくも、それは孔子に始まった儒学の影響を模したままの輸入文化‥
 日本の本質が礼であるにも拘わらず、言葉においてオリジナルが無い。
 (有るのかどうかさえハッキリしないのが正直な所だ。)


> ならば詩人として、整えようじゃないかという次第になっているらしい。


 ‥らしいというのは、著生の個性の枠から飛び出している次第を意味する。
 なにしろ、礼とはほど遠く、適度にチャランポランなのが著生の本質だからである。


> 是に関しては矛盾もあるだろうが仕方がない。他に適当な人材が居ないと見られる。
> 文句があるなら、その前に礼を吐け!!



1-3)1
 今や、元となった輸入元の中華はダメダメの筆頭格である。
 輸入元の中華に根付いた礼とは、上から目線のダメダメ文化でしかない。
 欧米化から、多少柔らかくなり過ぎたかなと思う日本とは違い、底なしの勝手主義に至った。

 ‥そんな、中華の言葉でしか言い表せていない礼など、口惜しいにも程がある。
 そのままでしかあれないのでは、あまりにも「礼」に対して失礼な有り様じゃないのか‥


> 「そう思えばこそ、愛だ自由だと宣う時代ではない!!!」
> 日本人としては、日本の礼を言葉にして問うべきである。



1-3)2
 ‥しかし

 なまじ国家神道の印象があるばっかりに、
 国民からも礼を重んじるスタイル=武士文化≒軍国文化‥の印象が拭いきれないでいる。

 斯様にも、誠に残念な現状に位置しているのが日本の礼文化なのだ。

 確かに、そのままで行くと、国家神道の復活かと思わざるを得ない。
 なぜそうなのかは、言葉が足りていないからである。


 今や格差の激しかった明治時代なんぞ参考にはならぬのに、
 なまじ明治の文学が忘れられないのか、言葉において遡るとその辺りで満足げである。

 ‥以下軍国化・軍事色への道をまっしぐらであったがゆえか、
 文学としてもあまり参考にされず終いの観は拭えず、どうしようもない。

 そもそも、その当時の文学者の誰しもが、自由だ愛だとしか叫んでいない有り様にある‥
 (‥当然ではある。)



1-3)3
> ところがどうか‥


 人間性の解放において、一番の重きを置くべきは、「礼」であり、
 愛だ自由だと叫んでいる段階は、稚拙と言わざるを得ない。

 ‥されど、

 其を新しき言葉で言い表せていない段階で言い始めると、即炎上なのだ。
 そう思わざるを得ない。
 ‥どうせ炎上するぐらいなら、畑違いからつぶやくのがお役目ということになろうか。


 ‥面白いような、面倒くさいような


 格好良く書けば、凄みが出過ぎちまって、書いてる本人もビックリである。
 柔らかく書こうとすると、如何にも知識人に見えちまうんだから、違和感ありありだ。

 断っておくが、

 何を勉強というかは人それぞれで、
 著生は見つめている角度が多少他人とは異なっていると言うだけの、
 表面的にはとても礼を語るになんか及ばない日常の有り様である。
 (‥そこんところお間違いなく。)


> 文句があるならお前さんらで言葉にすればいい。こちらとしては大いに助かる。
> 著生は詩人であって、思想家になるつもりはない。講演なんかまっぴら御免な口なのだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:14 | Comment(0) | 日記/2014 | 更新情報をチェックする
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