2014年08月05日

【刮目】愛だ自由だは装飾、礼こそが土台・柱である

1-4)記稿.2014/08/05
 どんなに贅を尽くした建物でも、土台が傾けば誰も近寄らなくなる。
 愛だ自由だとの論は、それと同じ、礼こそが土台であり柱たり得る。
 ‥他を敬わぬ社会に平和など訪れようもない。

 戦の時代にもなると、

 誰しもは反発的になって、愛だ自由だと口にするものだ。
 しかし、平和が訪れても同じように愛だ自由だと口にした所で、
 争いの種にしか成り得ていない点を指摘する声はほとんど見られないのである。
 (それこそ、甘えも好いところのやりたい放題がしたいだけじゃないか。)


> ここにおいて、愛だ自由だの論に限界を覚えざるを得ない。


 「‥平和を望むなら、自らを律して、礼を唱えよ!!」
 でなければ、いつまで経っても愛も自由も手に入らないのである。



1-4)1
 ところが、礼には、臣下の礼のイメージが先行しており、何かと‥
 礼→主の勝手→争い事のきな臭さ‥のイメージが、ホコリを被ったままにそこに居座っておる。

 ‥そこに、

 上も下もないからこその「愛」と「自由」の考えが追加され、


> 本来、礼に見られた‥お互いを敬う意味合いは見失われるばかりに陥るのだ。


 礼なる言葉の響きと共に、誰かの指図のままに従うなどという見解は、
 明らかに勘違いであり、誤りである。

 ‥特定の誰かを尊重したり、守るためにあるのが礼なんかじゃない、
 自ずから、お互いを立てるために用いるのが礼となる。


 「私はあなたを尊重しております‥」
 それを気持ちに乗せることがそもそもにして大事‥それだけのことだ。


 その大事が本当に為されているのかどうか、嘘はないのか、
 とことん細かくならざるを得ないのは、偽物に過ぎない。

 疑うところから始めるんじゃない、お互いの存在をよろこぶところから始めるのだ。

 そこに気持ちがなかったら、平和なんか土台から成り立つわけがない。
 ‥そこに気持ちがないなら、無理する必要も無きこと。ただ黙せば善い。

 愛だ自由だと言っても、自分勝手が通るか通らないかに対して、

 何かとお互いを牽制し合わねばならない。
 放っておくと‥それこそ、やった者勝ちの空気しかない。
 それゆえに、吾も吾もと押し寄せるばかりだ。秩序なんてあったもんじゃない。


 ‥それこそ平和な世の中になったのなら、
 あれが好きとかこれが嫌いとか、言ってる先からとらわれて、
 差別感情しか猛烈でしかあれない様では、お門違いも甚だしい限りである。

 単に、自分の暮らしぶりがラッキーなら良いと思うだけなら、戦を望むも同じであろう。
 (お互いに、迷惑と喧嘩を売っているだけのようなものだ。)



1-4)2
 外国の文化の多くは、始めから、上からの支配しか頭にない。
 日本の臣下の礼にしても同じである。

 その結果、愛だ自由だと民衆が騒げば、如何にもその通りに見える。
 ‥だから、戦争を繰り返すことで、願いは叶っているも同然だ。
 (所詮、戦なんてものは、息切れを起こして一旦停止するのが相場である。)

 平和を口にしていながら、そこに根付いてしまった競争原理から脱せないのなら、
 始めから嘘八百の平和運動も同然であろう。


> どこにお互いの命を敬った声が望めて在るというのか?


 平和を望むと言うことは、豊かになればなるほど、
 慎ましきこだわりもまた同時に身につけていなければ、どうにもならなくなるのである。


 見よ、草食動物を‥増えれば増えるほどに、
 大地を食い荒らし、自らを追い込むしかあれていないではないか。
 ‥その問題を解決しているのが、肉食獣に喰われる様である。

 一見血なまぐさく見えようとも、ブレーキ役を得ることでバランスを保つのだ。


> 人間にもブレーキ役が必要だと思っている限り平和など来ぬ。


 人間であればこそ、ますます自らを律して、慎ましくあらねばならぬのだ。
 獣同然のままで良いというのなら、愛と自由への憧れを抱いたままに苦しむほかあるまい。



1-4)3
 有り余った力を振るうにせよ、ユーモアだって必要だ。
 洒落っ気だって必要だ。何もかも必要だ。必要の用は多いほどいい。
 ‥力こそ正義の一点頭では、ダイナミックな循環なんぞ望めないのだよ。


> そういう視点からの敬いこそを「礼」として戴くべきである。


 その意味で言えば、
 己が何たるかのわきまえを知らぬと言うのでは、無礼でしかあれまい。
 ‥そこを安易に勘違いしたままにあるのが臣下の礼でもある。

 何も難しく考える必要は無い、己の信ずるところを為せば好い、それだけのことだ。
 そこの所だけが、日本独特にあると言っても良い。武士道でさえそこに行き着く。
 ‥土台が肝心なだけで、装飾が間違っていると言うことではない。


 これからの礼は、戦のために有るのではない
 平和を味わうために、お互いが、自らが何であるかを知る所から始めるべき事なのだよ。


 ‥何もしないで最高などと言う理想郷は、馬鹿に付ける薬がないのと同じで、
 すぐに退屈してしまう自分たちの程を、まったくわきまえていない有り様同然である。
 人類の多くの愚痴が、そこに起因している次第を自覚する者は少ない。


> ラブストーリーひとつ取って見てもそうだ。


 好きな人と一緒に居て、何がしたいかにしたって、
 突然の不幸の巻き込まれ型の話しか思いつかないんだからな。

 お互いを疑い合って、再確認し合うだけのお粗末なお話ばっかりさ。

 ‥そんな貧弱な幸福感しかないんだったら、
 それこそ、何もしないでうっとりしているだけを理想にすれば良いじゃないか。
 でも、そんな度量もありゃしない。まったくもって何がしたいんだか‥困った連中だよ。



1-4)4
> したいことが特に無いなら、それこそまずは他を敬え、
> 敬いのある次第を求めよ。


 ぶつぶつ文句ばかり垂れてみせても、ただただ見苦しいだけである。
 愛だ自由だと言い張ってみても、
 その日常の半分は、言いたい放題のやらかし放題だけではないか、そんなのは糞同然である。

 ‥愛なんざ、その多くは誰か任せの論調でしかない。後追いの論でもある。
 ‥自由なんざ、さらに思い込みの塊でしかない。失敗するのが前提なんだからな。

 命を差し出してまでの汗を見せてきたのは、日本人の礼文化だけなのだよ。
 そのように申し上げても過言ではないはずだ。

 世界の論ずるバカンス尊重の有り様で、今の時代を築き得ていたとはとても思えない。
 日本人は、自ら「礼」を掲げて胸を張るべきだ。


 臣下の礼から脱して、
 新しき礼を唱え、何が礼たるるかを再確認されるべし。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 10:53 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする
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