2014年08月06日

【刮目】贅とは何か?

1-5)記稿.2014/08/06
 人間として意識を切り替えようとするならまず、
 贅とは何かを自分の中で再確認しておく必要がある。

 上を目指して横に並ぶことが贅であると思っているだけで居ると、
 どうしたって、競争原理から逃れることはない。

 上を目指して並ぶことを、贅ではなく本能だとしても、
 切り替える意識が発生しないのなら、ロボットも同然だ。


> だからといって、


 自分の価値観に沿うだけを贅と認識するには無理がある。
 独りよがりや自己満足だけでは、贅としての説得力に欠くからだ。
 ‥贅にしたって、ある程度の理解を得られなければ、贅とは言えない。

 利休の茶道にしてもそうだ。

 作法や目利きにおける常識を壊しても良いとしたって、
 理解が得られなければ、誰もそのもてなしを味わいようがない。
 そんなのは、決して、贅だ雅だ風流だと表現されることはない。



1-5)1
 自由こそ贅であると思ってみても、
 地球に居る限り、地球の意図する限度というのがある。

 しかし、宇宙を飛び交うエネルギーの中から、
 これこれこのような思考をキャッチしてはいけませんとの宇宙的な法は無いのだ。

 それゆえか、
 無駄に地球の好まない思考をキャッチしては実行に移してしまうケースも見られる。
 ‥なにも地球ばかりではない。その場その場においての空気というのがある。

 その場における空気には、ある特殊の期待なり許容が生ずる。
 そこから外れると、誰もそれを味わおうとはしない。かえって迷惑がられるだけである。
 言うまでもなく、そんな味わいを贅とは言えない。


> 早い話が、様々な空気の中から最大公約数なる要素を見つけ出す作業を問うことになる。
> 結論から言えば、問題を解決することこそ贅であると言える。


 これは目的を達成することでもあるが、そこに慣れが出てくると贅とは言えなくなる。
 だから難しい問題への挑戦なり解決であることが贅という事に成りがちだが、
 ‥根本的には、問題の解決が維持されていれば贅であると言える。



1-5)2
 例えば、洗濯機である。


 仕上がり具合の進化というのもあるだろうが、
 基本的な部分として、洗濯機に任せることで得られる時間は、常に贅である。

 ところが、

 得られた時間を有効活用できなければ、何にもならない。
 そこに目的がないままで居ると、何もしないことが贅だとの錯覚が生ずる。
 ‥結果として、動かないことから一気に不健康がやって来かねない。

 この手の失敗は、往々にして見られるケースだ。

 もてあましている時間には目的がないのだから、
 目的のない行為をすることを贅とはとても言えない。


> ゴロゴロするにしたって、それ自体に意識を置いていないのでは贅とは言えないのである。



1-5)3
 ところが、多くの人間は、
 時間を得ることで遊びに出かけるという行為にスイッチが入る。
 ‥だから、遊べる時間を得ることが贅という見方が主勢を得る。

 皆が同じ方向に走ると、混雑が生まれる。

 その有り様は、ある意味で贅の風景ではあっても、
 心境としては、とてもとても贅とは呼べない代物と化する。


> ‥他人と同じであると贅であれるのは、そこに問題が絡まないケースだけと言える。


 つまり、洗濯機を得ることは共通した贅にあれても、
 そこに発生した時間の過ごし方まで共通してしまうと、贅に繋がるとは限らないということだ。

 ‥それの意味で言うなら、ただ単に横になって休むことに関してなら、なんら問題はない。
 (家族間における意見の相違はあるだろうけどね)

 ただ、そこを多くの人が目的としているわけではない。
 することがないから、とりあえずダレざるを得ない場合が多いと言うことだ。

 其を忙しい側からすれば、贅沢だと多少なりとも思うところがあるにせよ、
 目的も無くダレているだけの方からすれば、忙しそうな方を見て羨ましくも思えるものである。

 ‥このような贅における相対性は、状態や気分で変化するだけの贅でしかない。

 相対的に見ても問題が未解決なのだから、贅とは呼べない有り様だ。
 ならば、本質的に、その手の社会的課題が解決されることこそ贅と呼べる。


> 社会的問題を解決することこそ贅であるが、贅は贅ゆえに新たな問題の連鎖をもたらす。


 この贅におけるいたちごっこを、「贅のパラドックス」と呼ぶことができる。



1-5)4
 贅のパラドックスに陥らないようにするには、
 古き良きものにも敬意を払う意識も大事と言うことになる。

 ‥だってそうでしょう。

 人間が考えることで、(地球も含めた)皆で贅だと共感できる事柄なんて、
 古今東西の蓄積の数以上のものなんてないんだから‥
 (そう考えていないのは、無駄に考えれば好いと思い込んでいるだけである)


 資本主義の原理を下地にしたままに、
 あれは儲からないから必要ないとか、そういう意識で横並びになると、
 結果として息が詰まるってことだよ。


 原始人の暮らしぶりが贅とは思えなくても、
 その時代を思い出すだけで、ひとときの有意義な時間を過ごせるんだったら、
 それは十分に贅に成り得る。
 ‥人生に一度ぐらい、手で洗濯してみるのも贅と言うことだ。


> 西洋のように目的意識が薄いなら、何もしなくて好いのがパラダイスなんて思考になる。
> そういう思考や解釈は、もはや病気の部類に入る時代だってことだ。


 休むにしたって、ダラダラするにしたって、意識してすることが大事。
 意識が向いていないと、嫌でも贅のパラドックスに巻き込まれるのが落ちなのだから。
 (目的意識が薄い=他力でもある)



1-5)5
 ‥もっとも、贅のパラドックスは、先回りして解決されることは無い。
 なぜなら、共有体験しないことには次の新たな問題解決には至らないからである。
 (経験値の共有の差でもある)

 また、

 無駄に、何か新しき楽になるだろうことを考えても、
 その次に来るだろう問題点を洗い出す意識が薄いなら、
 始めから問題だらけだと無意識に見抜かれて、忌み嫌われることにもなる。
 (お互いに経験値に差があるのだから、キッチリ説明する必要がある)


 そこのきめ細やかさの民族的な差や進展が著しくなると、
 どうしたって、経済における競争は成り立たなくなる。
 ‥民度レベルが高い場合でも、同じである。


 くだらないものを売り出して儲けようなんて姑息な段階は、
 そのきめ細やかさの欠如がもたらす何者でもない。
 ‥目的意識の薄い層に、経済競争を求めることそのものが間違いなのだ。
 (通常その手の民族は戦で滅ぶのが筋。資本競争は復活させるばかりだ。)


> それの意味で問うなら、


 黒船は、日本人の適度な民度の高さに白羽の矢が立てられたのであり、
 中国の民度の低さ投入は、
 行きすぎた終わりなき競争欲に終止符を打つために押し込んだと言える。

 野心と本能で種を撒き、

 民度の高さで押し上げて、解決策を覚えさせ、
 民度の低さを投げ入れることで、問題を一気に表面化して、あるべき方向に舵を向けさせた‥
 ‥それが、天上界のやり方だったのだ。


> まったく以て、「贅とは何か」を問わぬ有り様こそ誤りづくしの始まりだったとも言える。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:14 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする
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