2014年08月19日

【刮目】{萌え感情}≠{恋愛感情}

1-5)記稿.2014/08/19
 「萌えとは何か?」
 それを料理に例えるなら「うま味」である。

 うま味を理解してこなかった西洋文化‥
 日本だからこそ大発生を及ぼすことになった「萌え」なる感性‥

 未だ年代によっては付いて来られない御仁が居るにせよ、
 若い連中がそれを理解しきって、人生に活かしているかというとそうでもない。


> なぜなら、萌えの本質と弊害を誰も論じていないからである。


 ‥商売になるならそれもあり。
 ‥人生の楽しみになるならそれもあり。
 まだまだそんな段階でしかない。

 かくなる著生も、今回の思考においてようやく‥
 萌えは萌えでしかなく、恋愛における感情とは何も関係が無いとの観を得るに至った。



1-5)1
 例えば、この「みくずきん」を考えてみよう。

51vM9TjW6FL.jpg51UYUUNCLaL.jpg

 いくら萌えだからとはいえ、
 森で出会って恋愛の対象にしたいかというとかなり微妙だ。

 見た目のままに思春期の盛りなら、誘っているようにしか見えないし、
 もう少し年齢を下げて歩いていようなら、どういった育ちかということになる。

 当の本人がその格好をどう思っているかは別として、
 ここまでの衣装ぶりになると、対象の性格がまるで見えて来ない。
 暮らしぶりだって不可解で想像しがたいばかりだ。


> しいて上げるなら、荒くれ男の娘といった所がお似合いだろうか‥


 仮に幼なじみだとして、対象の素性を知っていたにせよ、
 常にそのレベルを維持しないと我慢のできぬ服倒れの持ち主ともなれば、考えものである。
 好き同士であったにせよ、プロデュース力が伴わなければ如何ともしがたいではないか‥


> 少なくともそれが我々の知る文化色なのだ。


 (しかし、このみくずきん、実に好い‥orz)
 (ついでに、狼の耳と尻尾付きバージョンもみたいをん♪)



1-5)2
 しかし、そこに生じている違いを、
 「西洋文化とうま味との出会い」に置き換えてみればどうか‥?

 我々は未だ萌えの魅力に対して、脂身+塩味との違いを区別していない段階だと言える。
 日本料理のうま味と世界のうま味の解釈がまた違うように。


> 早い話、何が言いたいのかというと、


 萌えに見られるカワイイは、
 必ずしも、恋愛感情のそれにならないし、性の対象にならないとの見方である。

 萌えは萌えなのだ。
 うま味がうま味であるように、萌えは萌えでしかない。

 その衝撃の違いを無視して、ラブコールしようと、理解が伴わないのであれば意味が無いのだ。
 ‥日本料理のうま味と世界のうま味の解釈がまた違うように。



1-5)3
 本来、恋愛において重要だったのは、生活感の一致だった。
 地域の結びつきの強い方が、理解も早いし、食文化への対応と理解にも無理がなかった。

 しかし、今やそんな時代ではなくなった。
 結果として、人は恋愛の対象を個人の妄想を軸に選ばざるを得なくなったのだ。


> 結果として、恋愛対象の不一致が生ずることになる。


 本来、栄養を得るのにうま味はどうでもいい要素だった。
 それでも十分に成り立っていたのだ。
 ‥見よ、世界の食文化を、後進国ほど毎日同じ味付け同じメニューでも何でもない。

 しかし、

 一度、うま味に目覚めると途端に後戻りできなくなる‥
 日本の食文化に始めこそ慣れずとも、慣れた後はもう後戻り出来ないのだ。
 それが世界の本音に成り始めている。



1-5)4
> 萌えのそもそもは、映画だろう。
> 日本ではそれがマンガやアニメだったことになる。


 スクリーンに登場するヒーローやヒロイン像を見て、無駄に憧れるのだ。
 身近に居ないそれらを恋愛の対象にするにせよ、根っこは妄想である。
 その妄想を自分勝手にアレンジするようになったのだ。

 ところが、歳を重ねると不思議とそれがボディブローのように効いてくるのだ。

 何かと、思い入れのあるアレとかソレに似ていると思しき方に親近感が寄るのだ。
 そういう要素が見られないと、親近感がなかなかに湧いてこない傾向がうかがえる。
 それこそ、萌えとしてのインパクトを得ないと頑なにも記憶の城塞は閉ざされたままとなる。


> されど、


 いざ、人間の側がその萌えをよそおい、画面を賑わすような段階になると、
 妙な違和感が漂い始めることになった。

 日常のビジュアルとして似通った輩が登場するにせよ、
 結局の所は、生活感としての結びつきなどないままだ。
 ‥また、それはそれで競争率も高いということに変わりはない。

 バーチャルだろうとリアルだろうと、その辺の事情に何ら変化などない。

 それは、日本のうま味と世界のうま味の解釈の差に似ている。
 どう考えたって、素材の味を引き出せる方向にあるとは言えないのだ。

 素材の味を引き立てようと思えば、うま味には素材を活かした料理があるべきだが、
 世界のうま味は、あくまで、自分たち文化の延長上でしか扱われていないのだ。
 それがまるで駄目というわけではないにしろ、素材の味を引き出す文化の色合いには遠い。


> 萌えゆえに好きが高じたとしても、未だそこに変化は見られないということだ。



1-5)5
 「彼女に萌えを着飾ってもらって何を望む、何がしたい?」
 「萌えを着飾って、どんな日常をすごしたいのか?」

 男にしても女にしても、そこに対する方向性など何も無いのだ。

 それはまさに、
 うま味を覚えた世界の料理の方向性における形態と同じと言うことである。


> 着る文化のうま味を萌えというのなら、それはどのように活かされるべきなのか?


 萌え発祥の日本でさえ、それは模索段階だということである。

 萌えだけの感情を特別扱いして、恋愛感情のトップ条件に持ち上げてみても、
 素材の下地と言える生活感を得ずままで留まるなら、
 対象とテーマを、萌えとして観察し合う理解もまた進展し得ないということだ。


> そこをお互いに理解しないままで進もうなら‥


 いずれ恋愛対象の不一致で滅びる。

 誰がどう考えても、そうなるばかりだろう。
 それは萌え観の不一致とも言える。

 男は、そこに見られた萌えの空気感で以て全人格であって欲しいと望み、
 女は、萌えは単なる楽しみで、人格とは関係ないおしゃれの仕方の一つだと思う。
 (‥まぁそういう傾向はあからさまに見られるだろうね。)

 女が男に求めるアレやコレにしたって、そんなもんだろう。


> 恋愛に必須なのは、下地となる生活感の一致であって、萌えなんかではない。
> お互いにそこの所に理解が及んでいないと、滅びるのは間違い。


 誰かの妄想の完璧になる必要なんて全然ない。
 アニキャラを演じるにしたって、監督に完璧なイメージがあるわけではない。
 最終的に重要なのは、そこに生じた有り様を受け入れるか否かだけである。

 妄想の成長力の方が圧倒的であるがゆえに、
 要求レベルだけが高くなると言うギャップが起こる以上、
 判断すべき境目を見失うというのでは、萌えもしおしおである。


> うま味があるんじゃない、素材があるのだ。
> 萌えがあるんじゃない、私たちにコラボを愉しむ味わいがあるだけだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 20:50 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。