2014年08月27日

【哲学】冒険と物語 〜それって正義?それとも巻き込まれ?〜

1-6)記稿.2014/08/27
 冒険のイメージは主体的なものですが、
 特にこれと言った目的が無いなら、
 そこで遭遇するすべては、巻き込まれ以外の何者でもありません。

 巻き込まれると、大抵は逃げることを意識します。

 何を以て正義とするかは、防衛手段の範囲です。
 とりあえず、相手を傷つけずに自分の身を守ることが欠かせません。
 (‥それができるって、相当に熟練していないとできないわけですけどね)



1-6)1
 冒険を正義として成り立たせるには、
 そこで起きている状況について、パターンを理解していることが求められてきます。


> 正義が何であるかを語る前に、悪のパターンを理解すべきです。


 普通に旅をするだけにしても、
 うまい物を食って、そのついでに色恋沙汰を期待して、しでかすのが普通です。
 普通なだけゆえに、その手の騒動は普通に持ち込まれます。
 旅だからではありません。人間だからです。否、生物だからでしょう。

 移住したくなったとすれば、尚更です。
 多かれ少なかれ、その地に異文化を持ち込むことになるのですから‥

 観光を経済の目玉にするにしても、そこの所に目を向けていないと、
 単一民族を多民族化しようなんて、試みに巻き込まれているとも限らないのです。


> 旅を推奨するだけでも、問題沙汰は起こります。
> なら、始めからその土地の利権が目的ならどうでしょう‥


 交流が盛んになって進むようなら、民族間の差は無くなり融合していくのが流れです。
 どのような目論見や企てを試みる輩が現れようとも、いずれそうなります。

 しかし、旅先で巻き込まれ、日常が奪われ、身動きができなくなったともなれば、
 そこに根付いているものは尋常とは言えません。

 その土地の民度がそうなのか?、それとも自分がまずかったのか?

 どちらにしても巻き込まれるというのはそういう形です。
 その時、自らの正義を貫くにしても、
 目的もなく遊びで来ているだけですと、論は通らないものです。
 (‥どのような物語でも、そんな感じでしょうか)



1-6)2
 日本人の観光を横目に眺めていると、大抵において目的を有していません。
 その多くがただの遊びです。

 その一方で、外人が日本に来る目的はと言うと、半々でしょうか。

 日本人は自分たちが海外に出かけることに無頓着のスタンスであるせいか、
 外国人が目的を有して押し寄せてくることに警戒心を抱いています。

 これは、日本人が単一的に集団してきたことからの認識のズレとも言えます。

 ただし、日本では日常の普通がまかり通るのに、海外では未だ必ずしもそうではないのです。
 そこに理解を示さずに、
 世界の方に合わせよというのでは、世界の方がズレていると言わざるを得ません。


> 単純に、旅行者を巻き込む確率の高い国は、尋常とは言えません。


 とくにこの点において言えることは、法律の在り方です。
 民族間の風習の違いから来る事柄は仕方のないことですが、
 知っているとも思えないよそ者をそれと同じにしか扱わないような慣習は不可解です。

 ‥日本においても、
 武士の身分に対して無礼を働いたからそのまま即座に斬るなんて時代もありました。
 外国人だろうとよそ者に対して優しくなんかなかったのです。

 しかし、何も下調べもしないくせに、おいしい物だけ食って、見たい景色だけ見て、
 時にはその土地の風習に背くような無礼を落としても平然としているのでは、
 自らの正義など、とてもとても、筋を通せているとは言えません。

 観光でお金を落として役立っている‥それが何になるというのでしょうか。



1-6)3
> さて、そこの有り様を宇宙大に拡大してみましょう。
> 宇宙に冒険に出かける気持ちになってみて下さい。


 目的があって惑星の探索に出かけるわけです。
 もしくは、警察役としてでありましょうか。

 すると、人間の風習を知っているだけでは間に合いません。
 生態系そのものが違っているはずだからです。

 何が起きるのかの判断が伴わないのであれば、宇宙で起きている悪について無防備と言えます。
 ただの観光程度の調査でも、巻き込まれてしまったとて、文句なんか言えないのです。

 知らないくせに、身を守る術すらろくに備えもせず、
 宇宙を、天体を、時空を、気ままに旅しようなんて行為は、あり得ない行為です。
 ‥自分に対して無責任な有り様そのものに成ります。


> その点、宇宙の事情について熟知しているのなら、悪のパターンも熟知していて当然です。


 問題は、
 その者が、善であるのか悪であるのか‥宇宙の事情に疎い者は理解できないという点です。
 それ故に、コロッと巻き込まれているのが通常になってきます。

 判っているのなら、それに対応して動くということです。
 言われずとも、感じ取って直感で対応して行かざるを得ません。

 しかしながら、

 まともな対応、怪しい対応‥
 その違いを見極めることができるということは、身を以て旅慣れする必要が欠かせません。


> 幾度、吾が身を危険にさらすかなんて分かりません。


 そこに生ずるドキドキはらはらを感じている間は、
 何が善で何が悪であるかについて無警戒な自分が居るというそれだけです。
 パターンを心得ていないからこそ、巻き込まれた時に愚痴も後悔も吐くことになります。

 ‥尤も、冒険を楽しむ側としては、ドキドキハラハラ自体が目的です。
 言ってしまえば、死に体願望とも言えるでしょう。



1-6)4
> ‥そこで、「そんな死に体願望に正義なんかあるのか?」そうなります。


 ‥少なくとも、
 死に体願望を内包するばかりの者が、「死にたい」をむき出した者に、
 説得力など持ち合わせていないのは、日常の経験からしてもうなずけるかと思います。

 (‥ただしこれは心理テストでの範囲です。あしからず。)

 日常におけるその手の問題は、自分が自分に言い聞かせて事を鎮めるが如しになりますが、
 宇宙事のそれともなるとそれで済むはずがありません。


> 正義の本質とは、まさにそこにあると言えるでしょう。


 巻き込まれてこれこれこういうのが正義のはずですと論じても、
 自らがそのように行動を得ていないのが通常です。
 そのような状況は、なんであれ、負が絡んでしまってそこにあるばかりです。

 本来的に、負や悪のパターンがなんであるかを熟知していれば、
 始めからそれに対処した行動を取るのが基本です。


 「そうでなくて何を正義というのでしょうか?」


 私たちは余りにも、正義を主張したくて闇雲に突っこみます。
 その結果、善も悪も同じようだとの勘違いをはじめるのです。

 激しい戦闘になればなるほどに、敵も味方もありません。
 すべてが間違っているという解釈だけが成されます。
 正当防衛だろうと何だろうと、過ぎたれば正義は存在し得ないという感覚です。



1-6)5
 その過ちを何度繰り返しても、繰り返しても、
 同じことの繰り返しをしてしまいます。

 ‥恋愛に置き換えれば一目瞭然です。

 相手の事を知りもせずに、ただ何となく、浮ついた気持ちがスリリングとばかりに、
 目的も無しに恋を願うのです。

 正義が正義であるためにも、負や悪のパターンが何であるかの理解が必要であり、
 お互いの無礼にならないように先手を打って行動をすることが欠かせないのです。

 まさに手練れた物言いになりますが、
 誰でも落ち度が重なれば、自らの否を認めるのもまた正義の心構えです。

 ‥しかし、
 その時の落とし前の付け方がどうなるか如何で、そこを恐れてしまっては正義は無いのです。


> 素直に謝らない性格が自らにあると思うなら、まず正義のヒーローには成れないでしょう。
> 調べることよりも楽しむことが好きなだけなら、まず正義のヒーローには向きません。
> 洞察力に独自の強みを持たないのなら、窮地を脱する上での機転と勇気にはほど遠いのです。


 それよりもまして、
 冒険して得た失敗から何も学ばない者は、前に進めないのです。

 ‥失敗しないで成功しようとする者は、
 失敗を恐れる余り、負や悪につけ込まれるだけです。

 負や悪につけ込まれて、尚、身の保身を計るのなら、悪の方に才覚があったことになります。
 武士道とは死ぬことと見つけたり‥死んで下さい。そのような弱さとは決別してこそ正義です。
 (‥死ぬにしてもタイミングが求められますけどね、本当はここが悩ましいのですが)

 究極、失敗しないで進めると思い込んでいる輩は、正義を正しく知らないと言えるでしょう。

 失敗を畏れればこそ、まず相手を知ることが肝心になるのです。
 その上で、自らがどこまで出来るのかについても自覚が求められてきます。

 出来もしないことを何の裏付けもないのに、
 妙な自信から何とかなるというのでは失礼なだけです。
 (‥意見としてならともかく、約束事になると焼きが回ることになります。)



1-6)6
 正義は強くなければ駄目だとか、弱いと生き残れないとの意見もあるでしょうが、
 人徳の回らない強さなど、抜き身の刃でしかありません。

 弱いからこそ、健気な姿勢がよく見えるのであれば、

 頭から強いのでは、自分を静かに省みることも覚束ないことになります。
 ‥また、そういう目で見られる一方で、損な役回りという事にもなってきます。


> 多くの物語からしてそうなんですから、


 人生そのように見回してみても、そうなんだって気がつくことが大切です。
 そうであれば、正義の土台を成しているのは「礼」だということに行き着きます。


> で、武士に二言は無いなんて言い出すと、


 今度は逆に、他人を許すことが難しくなってきます。
 自分を許さない宣言をしてしまったも同然だからです。
 ‥キリシタン大名になった武将らは、そこんところに共感があったのかも知れませんね。


 リーダー、リーダーと流行ってますけどね、


 リーダーを担う上で肝心なのは、ほぼそこの心理です。
 許す許さないの加減というか、案配というか、説得力が伴わないと誰も付いてきません。
 性格が良いとか、判断力が的確とか、知恵が回るとか‥二の次です。

 しかし、そこもまた失敗を積み重ねたがゆえの賜と言えるでしょう。

 個性的なリーダーになりたいのか、愚直なタイプのリーダーになりたいのか、
 まずはハッキリさせておきたいところです。

 個性的なリーダーになりたいのなら、
 それこそ、自分のあるがままを振る舞って、うまく行かない点について振り返るべきであり、
 愚直なリーダーになりたいのなら、それこそ、愚直を重ねるべきでありましょう。


> ‥途中から変えたり、変えようとすると正義とは成り得ません。
> 変えたいのなら、変わる必要があるのなら‥一旦身を引くのがけじめです。


 それにしても、跡目が居ないと出来ないことです。

 跡目が居ないと思ったら、変わる必要がないと思うも、才覚がそこまでと思うも、
 学びの内と思って、進むしかありませんね。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:02 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする
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