無限の猿定理とは、
ランダムに文字列を作り続ければ
どんな文字列もいつかはできあがるという定理である。
比喩的に
「猿がタイプライターの鍵盤をいつまでもランダムに叩きつづければ、
ウィリアム・シェイクスピアの作品を打ち出す」‥などと表現されるため、
この名がある。by wiki。
> ドット・グラフィックなら、
ドット数×色数で並べていけば、どこかで名画にぶち当たるの勘定になる。
‥そこまでだったなら、まぁあまり抵抗感はない。
しかし、wikiには、こんな付け足しがされていた。
猿がタイプライターからbananaを打ち出す確率
仮にタイプライターのキーがちょうど100個あるとすると、
百分の一の六乗。つまり一兆分の一。
根気よくランダムにキーを打ち続ければ、いつかはその文章が打たれることになる‥
> 「はう???、何言ってるんすか!?」
同じ結果がもたらされない確率を
砲弾が着弾した直後に、
同じポイントに連続して砲弾が着弾しない確率と同じにしか考えていない。
「猿のランダムにそんなわけあるけ!!」
‥人間でさえ、忘れた頃に同じ失敗をしでかすのだ。
つまり、bananaの例でさえ、常に確率が一兆分の一であることに変わりはない。
二回目に出来る確率とて、決して一兆分の一掛ける(一兆分の一引く一)にはならない。
まんま一兆分の一×一兆分の一が延々と繰り返されるのだ。
しかし、
bananaの文字打ちを理解すれば、
イレギュラーが発生しない限り、確率は常に100%を得る。
1-4)1
ランダムという言葉の裏にあるのは、効率的な物の見方だけで、
同じことが繰り返されない用をどこに見いだしているのかは定かではない。
‥確信もないのに、機械的に無駄なことはしないと思い込むのは早計だ。
コンピュータにやらせる作業ではない。
無駄な作業をきっちり間引きしつつ、愚直に作業を続けられないのが生物でもある。
ゆえに、
無駄の繰り返しが生ずる確率を削ることが出来ない以上、
何をするにおいても、成り立たない確率に差など生まれ得ないのだ。
ところが、理解してしまうと、途端に100%になる。
これはある意味でデジタルに見えてしまう現象でもある。
勿論、何らかの要因で、成り立たない確率も含まれるから100%は実際的ではない。
しかし、成り立つ上での筋道としては100%の方向性を得る。
裏返せば、機械的な作業でさえ、歩留まり100%があり得ない辻褄とも言えようか。
ゆえに、最終チェックを省いて、100%は尚更にあり得ないのである。
1-4)2
では、そのように愚直に且つしらみつぶしに順を追っていけば、
いつかは成り立つだろうとの見解についてだが‥
どうして、ウィリアム・シェイクスピアの作品を以て、
いつ如何なる時代・文明においても面白い物として受け入れられる保証があるだろうか?
受け入れられなければ、打ち出されたとしても、日の目を見るには至らないのだ。
そもそもだ、ウィリアム・シェイクスピアの作品はただの文学ではない。
英語の基礎を形作ったといわれている代物だ。そんなこと人間でさえ困難極まりない。
それを猿のランダム打ちでもイケるって、お前等、自身の文化の礎を何だと思ってんだ。
(‥これだから、西洋独特のお馬鹿な好奇心上等に付ける薬は無いというものである。)
> 物事に重要なのは、実際の完成度としてのその物ではない。タイミングである。
タイミングさえ合っていれば、問答無用で、高評価されるのだ。
時代の美人なんか、常にそんな感じでしかあれていない。
なぜなら、それ以上の必要なんかどこにも無いからだ。
1-4)3
ヒトの思考は、与えられることに関しては完璧性があると思い込んでいる。
しかし、実際に汗して作る側からしてみれば、常に勉強である。
完成などあり得ない。それぐらいに微妙な判断が欠かせない世界を垣間見ている。
つまり、
ランダムに並べているだけでは、
くだらないぐらいに類似したソレが発生することになる。
ソレらの類似品の中から、作ったこともない輩に、
これはという一品を、判断して抜き取ることが出来るかというとどうだろうか?
「まず、無理」
あれもいいとか、これも捨てがたいとか、まぁそんなところでお終いになる。
作り手だからこそ、そこに準じたテーマに従って選ぶことがようやくにして成り立つのだ。
> ならば天才性とは、
テーマへの理解力と決断する力ということになるだろう。
「醜いシーンは嫌いだから、そういった類いの物は一切手掛けません。」
というような姿勢を貫くと、
どんなにテーマへの理解力があったとしても、作る上での決断は発生しないものだ。
(そもそもにして、宇宙の半分、命の半分、心の半分は見苦しい要素を占めている。)
(‥マンガ絵で言えば、細い線しか認めないとすれば、誰も育たないのと同じこと。)
与えられているだけの輩ほど、テーマ性云々よりも、
そういった部分的なうんちくで引っかかっているものである。
つまりランダムに並べていこうとも、名文も名画も気がつかなければ、埋もれたままとなる。
> 無限の猿定理など、所詮「猿の論」と化するのである。
1-4)4
そもそもにおいて、不用なものなど無い。
用と不用の境目にあるものは、芸術性ではなくテーマである。
> 生物とくに人類のテーマにとって重要なのは、機能することとタイミングである。
そのタイミングにおいて、キチンと選べるかどうかだ。
キチンと選ぶためにも、自らの人生におけるテーマを理解していることが重要である。
テーマを有している限りにおいて、
不公平な扱われようなど、問答無用でさほどの意味が無い。
されども、理解し得ない者が集まることで、権利というテーマが発生する。
それはそれで、大切な役回りである。
人を見て物を語るのはテーマに関することだ。
テーマに似つかわしくないと判断されれば、自覚の有る無しに拘わらず弾かれる。
タイミングを計りながら、物事が進むのは目的があるからで、
それは何も、人の都合ばかりではない。
> 一つ一つの些細なことでさえ、発見を重ねようとしない者には、前進も飛躍も来ないのだ。
ならば、無限の猿定理のやり方とて、
愚直に邁進しようと決断した者には、それに応じた何かが降りるだろう。
尤も、そこに決断があればの話である。
‥それにしたって、意味のあるとも思えない由をトライするのは、退屈にしか見えないものだ。
猿定理なんて名前が付いているのだから、大抵の者がそう思っているとの理解でもある。
> そこで、基本的なことを言えば、
猿定理とは、日々の鍛錬の必要を、猿定理と罵っているも同義である。
‥だってそうだろう。
猿の定理のランダムの順番なんか、それこそ好きにすれば良いだけの順番なんだからな。
それで芽がでないってことは、良いものを見る力が無いってこと以外のなにものでもない。
とくに、近似的なそれの段階での見極める力が無いってことだ。
「それともなんだ、するべき時にしないでも成り立つ黄金の達成定理でもあるというのかね?」
それこそ、思い込みも甚だしい限りである。そんなものはない。
在るのは、したいからするという理屈の無い様であって、
その近似の狭間から抜き出すも抜き出さないも、どれだけお熱に入れているかってことだけだ。
> 熱の無い様を、猿とか犬とか豚とか言ってんだろう。恋に例えるとほとほとそうなるよな。
> まぁ恋の場合、熱に浮かされているだけの様にも用いられるけどな。
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