2015年08月19日

【姫様の心得】かわいいとカワイイ道

1-4)改稿.2015/08/19...2014/09/03...

 ”kawaii”が世界の共通語になった。
 ”kawaii”の響きが、世界規模での関心事になった。


> 世界中の女子の誰しもが、自分の中の"kawaii"をプロデュースしたくてうずうずしている


 ‥さて、今日のお題である。

 自身のカワイイの特徴を、自分で理解しきらずに、
 他人にそのプロデュースを委ねるのは、矛盾した心構えではないのか?
 (興行を通して自身のカワイイを見せようとすれば、途端にそこに直面することになろう)



1-4)1

 自身のカワイイを、世間に向かってまき散らそうとする行為は、
 一方で、自分の中の無様をもまき散らしてしまう行為でもある。

 ‥否否
 見世物パンダじゃあるまいし、人と為りこそに注目が集まるものだ。
 カワイイは、その入り口の一つでしかない。


> 大衆からしてみれば、売りのイメージとそぐわない人間性は受け入れ難い‥それが心理だ。


 ‥だからカワイイからと言う事だけでなしに
 その前の段階で、カワイイという以外の自分を用意しておかなければならない。

 しかし大抵は、磨かれておらず
 思い込んだままのイメージをそのままにプロデュースしてもらいたいと思っている。
 尤も、そんな思い込みは、お互い様に被っているものだ。

 ‥価値観が被っているからこそ、カワイイが盛り上がっているとも言えようか。

 ならば、自分なりのアレンジの「カワイイ道」がそこに始まることになる。



1-4)2

> その時、自分自身でとことんプロデュースする力が無いのなら


 ‥どうしたって、他人の価値観を受け入れざるを得まい。
 ファン然り、営業サイド然りだ。

 「お前のカワイイはなんだ?」
 「お前のカワイイはどこにある!?」


 ‥他者大勢と被った範囲の
 その枠組みの中でのカワイイで十分だと思っているなら、舞台に上がる必要などない!

 「キミ、誰々に似ているね‥」そんなんで喜んでいられるならまずダメだ。
 ‥たとえ、そこがかわいいの始まりだとしても。



1-4)3

> 宇宙は、"kawaii"を中心には回ってはいない。


 「見よ!」
 そこそこにしか可愛さを纏えておらぬ者が吐き出す‥なんとトンチンカンな発言の数々。
 お門違いも甚だしい。
 カワイイを維持していく上で欠かせなきは、お互いの人間性の肯定である。
 否定的な言動は途端に行き場を無くすものだ。

 だからこそ、お互いに「カワイイ」を連発しもしよう。

 それこそが、全肯定であると謳われているが如しだからだ。
 カワイイを自負するなら、否定的な言動に及ぶようでは危うい。

 オリジナルへの挑戦があるのではない、そこに「カワイイ道」があるのだ。


> そもそもにして


 ‥こういうのがカワイイと言った思い込みのカワイイがスタートにあろう。それはそれで良い。
 しかしそれらを無駄に分類してしまう傾向には危うさが付きまとおう。
 なぜなら、部類=ランク付けでもあるからだ。

 差別無くことを構えるための言葉として「かわいい」が在るのだ。
 それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ「カワイイ」を発するのだ。

 ‥そうだ。すべての細胞が、そこに注目していよう。


 ならば、一部分だけのここが可愛くないとか、
 ここがチャームポイントですとか、そんなことを言っていれば、足元を掬われるのは当然だ。


 ‥見せ方としてのそれはあるだろう。
 しかし、そこに当の本人がストレスを抱えて発するばかりなら即赤信号だ。
 不思議とストレスの発散拡散押し売りに対して、人は許しを気さくに与えることがない。
 大衆相手なら尚更だ。


 ‥普通に考えても
 誰かがオチを気さくに付けられないような発言は、カワイイの範疇から逸脱している。

 そこでの割り振りや切り替えをどうするかにセンスが問われている。
 そこに、長続きするかどうかのカワイイのツボがあると言えるだろう。
 ‥なぜなら、ほとんど多くの者が、その手の切り替えを苦手とするからだ。

 ただ単に開き直れば好いという次第でもない。
 物事には、手順を踏んだタイミングというものがある。
 ‥だからこそ難しい。その掴み方にこそ、オリジナルが見て取れよう。



1-4)4

> しかし敢えて言おう


 カワイイはむずかしくなんかない。
 難しく思えたならまだまだだ。
 相手がたじろぐほどのカワイイを纏って、天然になりたいのなら、それこそ難しく考える必要はない。

 ‥だが

 空気だけの天然と、中身のある天然とでは雲泥の差にある。
 自在に至る過程において、好き嫌いしているようでは凸凹するばかりだ。
 そんなのは、本質においてカワイイを遠ざけているようなものだ。

 もう一度言おう。

 なぜなら、かわいいの本質とは、
 誰もが可愛いと思う分け隔てなき気持ちから生まれた言葉にあるからだ。

 「かわいい」とは、それ以上でもそれ以下でもない。


 「そこが腑に落ちて居らぬ者など論外だ!」‥などという意気込みも「かわいい」には無縁だ。
 ‥でも、カワイイ道には必要なのだよ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 10:46 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする
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