2014年09月04日

【考察】カッコイイVS.クール

1-4)改稿.2015/08/18...20140904...

 世界は、日本のカワイイを用いるようになった。
 その反対に、日本では、"クール"="かっこいい"、が使われるようになった。

 ただし

 もともとの"cool"そのものに、言葉のダブりもある次第から、
 "クール"と"クール・ジャパン"には、根本的なニュアンスの違いがあるように思える。


> 日本人のカッコイイの用い方として


 見た目の格好良さと、生き様の格好良さというのがある。

 一方で

 ‥外国の"Cool"のニュアンスについての細かいことは知らないが
 クール・ジャパンの表現にはどうしたって、
 見た目の格好良さのみを言い表しているように思える。

 つまり、外国人から見てクールに見えるのは

 その日本人の表現や技術であって、生き様や魂にまでは踏み込んでいないのだ。
 ‥そのように思わざるを得ない。



1-4)1

 外人が、生き様や魂についてどう表現するかは知らないが、
 日本人のカッコイイには、常に死生観ないし生活感が付きまとうものだ。

 ‥それの意味からすれば
 いわゆるビジュアル系に見られる賞賛表現の「クール」は、適当な方向なのだろう。

 つまり、

 世界にとって、武士道は"BUSHIDO"だし、禅は"ZEN"なのだ。
 そこから発する生き様や魂にまで、カッコイイの認識には及んでいないのだろう。
 日本人ですら、死生観を直接的にカッコイイとのベタな表現を避けている。
 ‥其を背負い生きる姿に肝銘が合わさり、ようやくにしてカッコイイが口を衝くのだ。


> ‥スター・ウォーズを参考にするなら


 監督のジョージ・ルーカスに、その辺のニュアンスに理解が疎いなどとあるまいと思うが‥
 その舞台の生活感の中に、BUSHIDOなりZENなりの文化色が直接的に出て来ることはない。
 あくまで、個々の人間性を立てる上での表現に留まっている。

 個々の人間性としての表現に留まるのは、
 もっぱら、文化圏の違いから来る配慮も含まれるだろうが、
 ‥日本人としては、概ね剣士の生き様にダブらせて魅入ることになろうか。

 フォースを操るジェダイに見られる師弟の関係は、
 どちらかと言えば、仏教的であり、教えに見られるそれは正義と言うよりはZENである。
 しかし、宗教を感じさせずに描かれるがゆえに、特殊な世界観との印象は拭えない。


> 日本人にとって、武士道も禅もほぼ日常の世界観にある。


 スター・ウォーズに見られる死生観がいかに格好良く見えたとしても、
 特殊な世界観からの脱皮には及ぶまい。日常感としてのそれには程遠いのだ。

 ‥つまり、スター・ウォーズに見られるZENには
 日常に通ずる普遍的にあるべき文化との見方にまでは及んでいないのだ。そう思う。
 「わかる奴&できる奴に任せておけば良い」‥まぁそんな感じかと。


> 人間として、日常に通ずる普遍性を理解できていないから
> 日本の文化に対して、クール・ジャパンとの表現に留まっていることになろうか‥



1-4)2

> 私たちは、日本の死生観が如何に特殊かを改めて自覚すべきである。


 世界の宗教の多くは一神教だ。
 そのように支配されてきたからそうなのかというだけでは終わらない不思議がある。
 普通なら‥多神教の方が、誰々任せの分業制に偏ると思われるところだろう。

 ‥だがどうしたことか、日本人の心に植え付いていたのは

 だからこそ恥を掻かないように、徹底的に己のすべてを出し切るとする自立感だった。
 それは自分の生業だけに留まらず、身の回りすべて地域ぐるみにまで及ぶのだ。


 ‥それにくらべて、一神教の世界では、
 それこそ、神任せのあなた任せが横行した世界観でしかない。

 神は神であって、人は人であって、
 超えられない壁で隔たれていて当然との認知で終わっている。
 ある意味で、実によく諦められているといえようか。


> 一方の日本人の場合はこんな感じだ‥


 日本人にしたところで、
 多くの者は、神は神、人は人だとの認識はさほど変わらない。

 ただ、一部の熱心な自立ある人物が、
 人は神の様には行かぬのならと‥身を打って投げ出す覚悟を露わにして来た‥

 ‥その乗り越え得た姿が起こした奇跡が確かにあり、その伝説を民が伝え続けた結果

 命を捧げる覚悟を以て挑めば、
 神の宿るが如しの力なり智慧なりを授かりもする‥との民族性を得たように思われる。
 (実際、日本人の多くの者は、其を根っこにした神前意識を抱き続けている)



1-4)3

> しかし、それは良き面ばかりに開花していない


 ‥命を賭ける由を重んじるようになったせいか
 攻め重視で守りを疎かにしてしまう傾向をどこかに潜めてもいよう。

 ある意味、死生観が先行してしまうがゆえに

 身を犠牲にすることに対して、何ら躊躇が無い操作を受けやすいとも言える。


> 他においては


 ‥神と人との間にキッチリとした境目が引かれてしまっている宗教観からの影響と
 人の抱え持つ心理性からか
 お互いの間にも、キッチリとした境目があるものとして扱われ、神前での公平を主張する傾向が強い。

 ‥其が人権を主張する文化を形成させたにせよ
 一致団結して何かをすることに、無償の積極性を有しているわけではない。

 あくまで

 自分の主張が優先で、公平よりは自由を得たいがゆえの主張の段階に当たる。
 結果‥自分に出来ないことへの自覚をハッキリさせてもいる次第から、
 人間性うんぬんよりは、能力への信頼度の方を優先させる文化色を得たと言えようか。

 ‥とくに西洋では、生産性やユニークを得ることへの教育的関心が高い。
 その一方で、和を重んじたり、道徳を身につけたりと言った精神的かつ社会的教育には疎い。

 その手の教育は、多民族・宗教の違いもあり、実際には学校や会社の役割ではないとされている。
 ‥それゆえに、本人次第に受け取られている。
 (刑務所の中での扱いを比較すれば、それは一目瞭然だ)



1-4)4

 だから、どんなに西洋から新しい展開での教育を日本に持ち込んでみようとも無駄なのだ。
 なぜなら、日本人が好むのは、和と道徳がほどよく機能する地域性にあるからだ。

 その根本にあるのが、
 多神教であり、武士道も禅も起こる以前から身につけて来た「お互い様の精神」と言える。

 ‥ゑぐい言い方をすれば
 それを表す上での言葉が無かったからこそ、
 武士道なり禅から、自分たちの言葉を見いだすことになったのが有史の流れだったと言えるだろう。


> だから、日本人のカッコイイには、死生観以前の本質として、


 日々暮らす上での愚直とおかしみを含んだ頼もしさが混ざり込んでいる。
 「クールの響きにそれがあるのか?」と問うなら、否だ。
 なぜなら、それは常に日常に溢れていて、普段から珍しくも何ともなかったからだ。
 ‥カッコイイというよりは「頼もしい」で通じたことだった。


 だから、武士道的な死生観が混じった段階で、カッコイイの感性に目覚めたと言えるだろうか。


 ‥刺激が無いなら、どうしたってカッコイイの気持ちに湧かないものだ。
 その点は、クールにしても同じだろう。
 ただ、平和の退屈が当たり前に思う歴史的経過があるがゆえに、違和感がそこに潜む。

 それで

 当たり前すぎる程に、愚直で地味で粘り強い生活感の男がモテないというのでは
 男女ともに、カッコイイに何を期待しているのかと問うべきことになろうか。

 その時、「カッコイイ」の響きは、それに置き換わるだろうにせよ、
 「クール」には、到底及ばない言語感の開きがそこにあるように思う。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 03:40 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする
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