2014年09月07日

【刮目】闇と光

1-3)記稿.2014/09/07
 「闇とは何か?」
 「光とは何か?」

 闇は明日への希望無き様を指し
 光とは明日ある希望を垣間見ている様を指すと考えるなら、
 ‥物事の多くは常に闇に包まれていよう。

 調子の良いことなどさほど長続きはしない。
 全体で見れば尚更だ。
 ‥100を割って、誰が多くを得るかなど所詮そんな所である。


> ゆえに、日常において何が光であるかは、そのままに相対的でもある。
> 数多在る人それぞれの見方が公平だということだ。


 ‥それは即ち、誰しもは闇を抱え、光を求めて彷徨っているかの如しでもある。

 闇の度合いに差があるだけだ。
 闇が深い分だけ、光を放つ時の度合いが時には優って見えもするだろう。
 しかし、たまにしか発せられない輝きに、希望の眼差しはなかなかに向けられないものだ。



1-3)1
 闇が深ければ、輝きがより強く見えるにせよ、
 それだけの深き闇が求められる。(ようするに絶望だ)


> 心境において、深き闇が何かを知らずして、強き輝きも知り得ないわけだが、


 人は得てして、知識や見識を以て其を考えて終えようとする。
 つまり、結果として、強き輝きの本質を知り得てもいないのに知ったと思い込む。
 ‥挙げ句の果てには、理解があれば良い人で、すべてを投げ打つ人には成り得ていないのだ。

 結局、そこには闇があるままだ。

 人は良い子を育てようと、まず闇に触れさせまいとか、そんなことに一生懸命だ。
 もちろん、初期の段階にある程度の配慮は必要だろう。
 ‥誰しもの経験則で得られている結論に異論を持ち出す必要は無い。

 しかし、

 時に、早い段階で闇を得てしまったとて、それはより強き光を得る上でのチャンスでもある。
 もちろん、そこに理解が無いと、闇に染まるばかりで意味の無きこと。
 (意味を知らないからこそ、闇はより深くなるわけだが‥)

 これは何も、闇を積極的に抱え込むことを教え導いているのではない。
 闇の多様性を知らずして、光の多様性に理解が得られないのでは、
 人の希望は、常に同形でしかあれないという弱さを抱え込むばかりになるということだ。



1-3)2
 闇から抜け出すには、どこかでその闇を嫌わねばならないのだ。
 希望無き日々に嫌気や飽きを感ずればこそ、風変わりなことも始まることになる。


> ‥そのような苦しみなり退屈を繰り返さずとも、
> 日々の創造はできるはずとの思い込みが、そもそもにして闇なのだ。


 何事も、思考の延長から得られる闇も光もない。
 必ず、この世たる人間関係を得ないことには、闇も光も得られないのだ。

 ‥思考だけを以て、闇だ光だと言い合っても、何ら深さをもたらすことはない。

 創造と体験は一体となって前に進むしかないのだ。
 なぜなら、創造と思考は一体で停止しているだけにあるからだ。
 ‥停止の仕方だけを心得ても、輝いているなどとは誰も思うまい。それと同じだ。

 ‥賢いから何だというのだ。
 書物に書かれている程度の知識はそのままに止まっているだけだ。
 活かさず、使わずのままなら、闇に埋もれているも同然だ。
 ならばこそ、うつつ世の渚に光を求めることにも成ろうか。


> 善かれ悪しかれ関係無しに、形にすることにさしたる善悪の差など無い。


 結果的に、それに希望が伴ったのかどうかである。
 自らを闇に引きずり込むだけだった行いなど、真を得る過程の中途なだけだ。
 ‥無造作に闇をまき散らされても、深まった闇から誰も出て来られないのでは意味が無いのだ。



1-3)3
 最終的には、光を見たいのだ。闇のままに深まりたいのではない。

 そこに意識が定着してくると、闇と光の方向性の違いに多少の理解を纏うようになる。
 ただの好奇心にしか見えていなかった自らの意識への好奇心の去来の捉え方が変わってくる。
 ‥それはつまり、闇と光の道筋が見え出すということだ。


> 光を得たいのだ、闇が何であるかを心得た者に同じ繰り返しは必要ない。


 どう関心を示すと、どうなって、どう切り返せば良いかに創造が働くのなら、
 あとは淡々と歩を進めれば良い。
 時に、余計な弱さや好奇心に駆られようとも、大した問題にはならない。
 問題を切り返せなかったのなら、まだまだ学ぶべき事柄があったというだけの話だ。
 ‥闇が晴れた所にも光がある。ただその様を見られるかどうかだ。


> たかが一人が、光の道を進むことに何の希望も無い。


 お手本を求めたとしても、お手本にさほどの意味など無い。
 より多くの者が一定の段階を得る事で、鏡面が磨かれたかのような輝きを得る事の方が大事だ。

 それは実に平凡な事なのかも知れない。
 しかし、人は挑戦すべき事柄が無くなると途端に輝きを失うものである。

 ‥ここで問う光とは、斯様な弱きものではない。
 闇を知り得たからこそ、会得することになった揺るぎなき道筋だ。
 お手本を習得することでは無い。


 ただし、いつまで経っても闇は無くなるまい。
 なぜなら、始めに申した通り、闇も光も相対的に存在するからだ。
 一寸先は闇、相対的且つ多様にも創造が成されるのだから、闇も続くのだ。

 「その先の何を知り得ているというのだ?」

 知り得たのは単に、己が背中での導き方だけでしかあるまいて。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 01:13 | Comment(0) | 黙示録 | 更新情報をチェックする
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