2014年09月08日

[メモ]人間計画の焦点

1-3)記稿.2014/09/08
> 宇宙意識らが自らの求める創造を試みた段階で、扱いやすい道具が求められた。


 そもそもにして、自然界を見回してもそうだが、
 念の力で惑星を真っ二つにできるとしても、刃で切り裂いたような姿にはなるまい。
 遠目で見てスパッと斬れたように見えても、近くで見ればデコボコだろう。
 つまり、ミクロン単位で出来ることには自ずと限界があったものと考えられる。

 ならば、生物だからこそ創造し得ている細やかさも中にはあることになろうか。


> 得手不手の解消に道具を用いることも創造の形の一つである。



1-3)1
 人間が様々な道具を生み出したように、宇宙意識も同様の過程を得た。


 記録を担う道具‥(集合意識)
 自動で末端管理してくれる道具‥(種の保存、生物への関心)
 エネルギーの生成‥(様々な感情)
 自分たちには出来ない細かい様々な作業‥(自然環境への細かな手入れ)


> 様々な過程を得て、出た答えとは、人間で言うところの人型ロボットだと言える。


 研究の積み重ねと共に、様々な計画が人間に統合され、そこに焦点が集まるようになった。
 結果的に、生物の創造に繋がり、人間が暴走しないようにする上での計画が焦点になった。
 ‥様々な計画の統合の過程で生み出される意見の食い違い等も当然としてあったはずである。

 されど、

 生物の創造とは言え、ただの道具の創出だった。
 人間側が逐一生物の躍動に感動を覚えるのとは違う捉え方は常にどこかにあるのだろう。

 ‥肉体寿命が克服できないのは、明らかに道具の性質だ。
 だからこそ、人間の基本性能をテストする上での違和感もあったはずである。

 自分たちの側が耐久テストされて望ましいかと言えば、そのようなはずはないのだから‥

 人間が自分たちの思惑通りに展開しない事態への恐れがそこにはあった。
 真実を知り得た人間らが反逆ないし総スカンしないかどうかへの躊躇だった。


> 人間が神を畏れるように、計画に携わる側もまた人間の方向性に恐れを抱いてきたのだ。



1-3)2
 計画の側が、人間に何を求めたかは定かではないにしろ、
 結果として、人間には、意思と科学的に学習する能力が備わる。

 ‥聞くところによれば、
 宇宙のすべてにアクセスできるようにシステム付けられているそうだ。
 つまり、人間の可能性には、宇宙の可能性の程度が込められていると解釈できる。

 しかし、

 所詮は道具としての立ち位置のままに、
 計画側の意図通りに動くべきだとの扱いに変化はないようだ。
 それだけ人間に、期待したほどの性能が出ていないということになるだろうか‥

 ある意味で、スローペースである。

 そもそもにして、セキュリティとして人間には、
 精神とのバランスによって能力が開眼するとした仕組みが組み込まれている。


 始めからそう有ったわけではない。
 能力の開眼に当たって、それが実際に機能するかどうかの、
 存分な実証実験が成されたと言えるだろう。

 魔法なり超能力文明のような記憶はそれを思い起こさせるのだ。
 しかし、その中途でリセットを喰らう羽目になったのは手順でしかない。
 ‥結果として、記憶を持つ者、能力を固定した者、それぞれに差が生じていることになる。


> 宇宙のすべてにアクセスできる設計になっていると言っても、


 使いこなすかどうかは、人の側の意思の問題だ。
 要らないと思えば使わないし、無いと思えば尚更だ。
 ‥死ねば思い出すとか、覚醒すれば全部使えるとか、そんなのは単なる思い込みだ。
 (自身に創意工夫を課さぬ者は、有り体の使い方しかできず、ユニークな発露をもたらさない)

 そもそもにして、

 計画側の期待した力の使い方を理解するには、計画側の意図に同調する必要がある。
 何も人間勝手に力を使い込まれても厄介なだけであろう。



1-3)3
 しかしなぜ、計画に携わる側は、
 人間に与えた通りの精神と能力に目覚めることに恐れを成すのだろうか?


> ここが実に不可解なのだ。


 実際、計画の遅れには、派閥間における抵抗が根強いとの話をよく聞く。
 芝居とも、手順とも思えない因果を推し量らざるを得ないのだ。

 「遊び道具が、明日から言うことを聞かなくなることへの絶望か?」
 「特定のその者たちは、それ以上に踏み込んだ感情なり思考を持たないのだろうか?」

 仮にそうだとすれば、

 人間の心の中にもそれは紛れていることになる。
 なぜなら、その形そのものもまた宇宙に在る一つのチャンネルの形だからである。
 ‥特定の状況になると必然として、そんな領域とてアクセスしてしまうと言える。


> 人間が覚醒した果てに身につけた力に対して、
> どのように付き合うべきかをあまり考えていないのは人間の側でもある。


 ‥能力願望を先走らせて、生きる上での意欲を取り違えては、怪しいばかりだ。

 能力さえ得られれば、ツラいことがなくなるとか言ったって、
 自分たちの思い通りに行かないと、誰かのせいにしてお互いを攻撃し合うのでは、
 宇宙に見られる怪しい連中と同列だ。


 実際、能力が有ろうと無かろうと、
 人は自分に対して頑固だし、譲らないものは譲らないのだ。


 計画に携わる側が人間の可能性について恐れを成すにしても、
 人間同士で自滅する流れもその一つと言える。
 いままでの積み重ねの一切がご破算になる瞬間は、人間だって嫌なことなのだから。
 ‥確かに、それは自分たちの写し鏡が人間でもあるということに他ならない。

 どうしようもない連中も居れば、立派な御仁も居るということだ。

 だからといって、仲間はずれにして良いという論は持たないのだろう。
 そういう意味では、人よりもたくましいというか図太さを備えていると言える。
 ‥人が神の領域に入れるかどうかは、単にそこを受け入れているかどうかだ。


> そこを目指しているかどうかが、人と獣との境目とも言えるだろうか。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:05 | Comment(0) | 黙示録 | 更新情報をチェックする
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