2014年09月09日

【刮目】得るためだけに学べる次第など何一つ無し

1-7)記稿.2014/09/09
 何かを得ようとするとき、
 なぜか、何かを捨てないと前に進めない状況というのがある。

 ドラマチックでもあり、無常でもある。

 ならば、何も得ようとせず、ただ歩むとする手もあるだろう。
 (歩めないのなら止まっていれば良し。)
 これは同じことだ。


> ただし、


 超個人主義が、得る事で成り立っているとするならば、
 この何も得ずに歩むスタイルもまた超個人主義に匹敵するだけの度量が求められるのだ。

 「何しろ‥生きている甲斐が有るのか無いのか‥丸で解らなくなる。」



1-7)1
 何も得ずに歩む姿勢は、無学・無教養に陥り兼ねない危うさを孕むと同時に、
 持続性に乏しき沈み込みの中を彷徨うが如しでもある。
 されど、それでも生かされているのなら意味がないわけではない。
 (‥なんら恥じる必要もまたなし。)


> しかし、


 何も得ようとしないのも、得る事しか頭にないのも、
 端っこと端っこの関係で、行き詰まった状態である点において何ら差が無いことの次第だ。


 循環することの大事こそ優れているのであり、
 次はそのテンポとなる。


 目まぐるしいほどの勢いで循環だけが起こったところで、
 何も得る所が無い‥

 なぜなら、本来的に「欲する」意味の中には、暮らしの中に取り入れたき想いがあるからだ。

 物としての取り入れようにせよ、始めからそれぞれに程度としての基準を有する。
 そこにある基準を無視して逆らってみても、心に満足が去来することはない。



1-7)2
 なまじ豊かであるがゆえに、
 消費することだけが目的で、集めているだけの様は実に奇妙なことだ。

 「なぜ、そこが目的のままに前に進むことが出来るのか?」
 「成り立つわけがない」


> これが得る事しか頭に無いとする行き詰まった状況だ。


 そのようなお客ばかりを相手にしていても、役になど立っていないのだ。
 儲かるとか儲からないとかの以前の話としてそれが言えるだろう。

 「誰かの消費欲を満たすためだけの存在に何の意味がある。」

 誰かの収集的な消費欲など前提にすべきではないのだ。
 作る側の作りたいが始めに在って、結果的に誰かが必要として買っていく形がベストだ。

 「欲しい」と「必要」の違いを誤魔化しているだけの有り様は、身を滅ぼすだけである。
 何はともあれ、命を削り取られて多くの物がそこにあるのだから。

 「欲しい」と「必要」の差に理解が伴わぬ豊かさなど、他の命の犠牲を弄んでいるも同然だ。
 そこが自分自身に跳ね返っていることに気がつけないのでは、
 運にだって見放されるというものだ。



1-7)3
 自由に活動できるとしたとて、得たい欲求だけを優先させていても、
 全体として、とてもとても、バランスを保てるわけがない。

 作りたい方の欲求に焦点を合わせておらぬ文化性など糞である。

 その作りたいにしても、「儲かるから‥」「市場への一番乗りだから‥」
 かような動機で動いても迷惑なだけだ。

 カネが目的だけの関係など、カネの切れ目が縁の切れ目でもある。
 基本的に資本競争を強いたとて、根張り強さなど無いのだ。


> 地味に、自分に必要だから自分が作るぐらいがほのぼのとしている。


 得手不手が伴う範囲での物々交換をする気概でなくて、
 公平だ、不公平だを口にしたところで何の説得力もない。

 「必要だから作りたいをお互いに尊重せずして、何を尊重しようというのか?」

 文化として、自立が成り立っているかどうかは、そこを言うのだ。



1-7)4
 今の時代、カネを余らせても、使い道に大した独創性などない。
 まず健康が一番だ。健康に合わせた暮らしぶりをカネを掛けてすることになる。

 それにしたって、昔ながらの労働暮らしを自分のペースでするだけのことだ。

 肉体労働がスポーツになって、
 団らんが劇場鑑賞になって、
 自給自足の食事が、新鮮な食材を扱うレストランか料亭になっただけのことだ。


> 結果的に、仕事の専門以外に何ら芸を身につける機会が乏しい。
> それでいて、どうしたことか病気にならないかを常に心配するばかりだ。


 上には上が居るからそれで良いと思っておる。
 職業の選択の自由ゆえか、自分のもしもの時のための医者には掛かれるものだと思っている。

 中には、そのような暮らしぶりの中で得た知識で以て、何かに取り込む者が居ようと、
 伝統を背負うほどの振る舞いには遠い‥趣味の範囲で手一杯であろうか。
 ‥何はともあれ、既存の付き合いとやらに忙しい。

 それこそ、本格的にやり出そうものなら、付き合いからして捨てねば成るまい。
 ‥捨てると言っても、表現としては、切り替えであって実際的には離れる程度のことだ。


> カネがあって何かするにせよ、そこに至る機会やペースを掴んだのであれば大したものだ。


 しかし、多くはそうではない。

 社交辞令の付き合いがマンネリで日常を進んでいく。
 それこそが、社会の闇を生み出さんとする姿のよすがにあろうともである。
 (‥近い者同士で仲良くし合うのは当然、日常的に時間を割く間柄なら尚更。)

 そして、そこにありつけない者達は、

 原点は自給自足であるにも拘わらず、
 社会の上を体験しなければ、本道に還る意味に乏しいとばかりの思い込みに溺れるのだ。
 確かに、社会的な動機としても、何らその手の体験を有さぬ者に対して、

 「若くもないのにいきなり何言ってんの?」
 「やる気があるなら、もっと若い内からするものだろう!」

 ‥かようなツッコミをし合うばかりの空気で満ちている。
 資本競争ゆえに、いつまでもそのまずい空気の中で溺れるのだ。



1-7)5
 基本的なことを言えば、

 日当たり抜群、風通し抜群、そんな環境で育った者とそうでない者‥
 しっかりとした食事の体験を積み重ねた者とそうでない者‥
 体をよく動かして、自分の肉体を通して自然の気を取り込み続けた者とそうでない者‥
 バランス良く正しく教われる環境に居た者とそうでない者‥


> 確かに‥正しく与えられて来た者が、後々的に宝物のような煌めきを見せることになろうか。


 それにしたって、それはその者だけに与えられたというわけではない。
 かの者が、多くの者らに対して、
 自らほとばしる煌めきを分け与えるだけの振る舞いをすれば、公平になるのだ。

 それを間違った教え方を社会全体で担ぐから、誰もそうしなくなるだけのこと‥
 自分の贅だけを潤しても良しとするのが当然とばかりの空気に何の意味がある。



1-7)6
> ならばこそ、敢えて言おう、
> 始めから何も無かったのなら、捨てて前に出る必要などあるわけがない。


 何も得ようとせずに歩む姿勢こそが、運の始まりと言えるだろう。

 しかし、それにしたとて、何か目的とする方向を得ぬままでは始まるまい。
 その一点に特化した生き方をする限りにおいて、捨てる様は付いて回るのだ。

 ‥軌道に乗せるまでが大変。その後どうするかは、その時次第だろうか。
 それにしたとて、何も得ようとせずに歩む姿勢を放り出して成り立つことなどない。

 なぜなら、

 無駄なことの多さを理解してそこに居ないのなら、得ずに歩んできた学びが無いではないか。
 始めからのやり直しが待っているようなものであろうぞ。


> ‥得るためだけに学べる次第など何一つ無し。


 捨てる意味を学んでそこに至った自身に嘘を付いて何になろうか‥
 かのような有り様こそ、天に唾するような様ではないのか
 他者を乗り越えさせていただく意味には、命を預かった重さがのし掛かり来たるのだ。

 後々的にのほほんとしたいだけなら、それこそ自給自足の分だけを以て良しとすべき事だ。
 それ以上を生産されても迷惑なだけであろうが。



1-7)7
 飢えている自分に焦点を向けていると、飢えている自分から脱することは出来ない。
 (‥恋愛なんかとくにそうだ)


> 与えるから与えられるのだ。


 されど、間違いを含んで与えている間は、間違いもまた与えられることになる。
 そこの違いをキャッチする感覚を得るまでが一つの境目である。

 飢えていては、飢えているだけに、
 得られる違いに有り難みの差などさほど感じられない場合が大抵である。


 与えているのは何も物や行為だけでは無い。


 性格から何まで‥そうだ、その当人の空気感が根っこにあることになる。
 自分の何を誇ってそこに居るのかでもある。
 競争の中でも、そうでなくても、自身を支える根っこが枯れていると育つことが無い。

 何を選んで養分を吸収するかは、己次第だ。

 好き嫌いが多いだけでも、いつも飢えているだけという事にだって成って来よう。
 一定のバランスを保つことが大事‥それが何かを識ることが大事‥
 社会の中にある一定のそれと、自分の中にある一定のそこの差を心得ることが大事‥

 そこを自分で見つけられない者が、他人に見つける次第を教えることなど出来ぬ。
 何を与えるべきかと言えば、そこだ。
 そこを得る事で、己に必要な養分のギリギリを識ることになるからだ。


> ‥何も得ずと言えども、歩む上でのペースにあった必要は欠かせないということだ。


 自分の必要を心得る者に、他人のズルいなど、もはや何の意味も無い。
 農作物を育てるのと同じだ。種が違うのに、同じ量、同じタイミングなど意味が無い。
 毎年の気候が違うのに、生育ポイントがズレていては育つ物も育つまい。それと同じだ。

 ただし、人は伸びしろを有する。

 そこの成長を見逃していると、根は張れても、果実に見栄えは起こらないと言うことだ。
 根は張れているとの自負があるなら、
 これは何だと思う壁や好奇心には、己を育てる上での伸びしろがあると思うべき事だ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 18:20 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする
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