2014年09月12日

【刮目】人権VS.指揮権

1-4)記稿.2014/09/12
 私たちは、人権について教えられてはいるが、
 指揮権についての帝王学的な教育を受けることはほとんどない。

 リーダーに成るための教育なんて次第を最近では口にするが、
 それにしたって、人権の延長線上にある指揮権について深く考えてはいないだろう。

 リーダーに成る論にあるのは、先輩的なアドバスだし、
 そもそもにしてそこには、お互い様の範囲だとの思いがある。


> ところが、


 これが、大手企業ぐらいの規模に成ると、
 途端に先輩としてのアドバイスなどと言う生ぬるい代物では無くなるのだ。

 そこに在るのは明らかに、帝王学に基づいた指揮権である。
 命令権と言っても良い。

 誰しもは、そんなブラックな臭いのするリーダーに上り詰めたいのではない。
 自分たちの活性化に必要だからリーダーに挑戦してみよう程度だろう。
 ‥しかし、その先にあるのは明らかに、指揮権・命令権・帝王学なのだ。



1-4)1
 男が夢を持つことは、男女を問わず、その夢に賛同が伴えば支持されよう。

 しかし、女が夢を持つことは、
 あからさまな孤独が付きまとうばかりか、
 恋の対象とも成ると唖然とするほどに支持に乏しい。

 これは、本能とも言える有り様なので、人権以前の問題だ。
 (‥個人の挑戦する自由の範囲として解釈されるべき事柄だ。)

 男は女の夢に身を任せるなどと言う在り方を基本にはしていない。
 その点、女は男の夢に身を委ねることをそれなりに受け入れるように性格付けられている。


> ところが、


 男が男の夢に身を委ねる場合にせよ、
 「あすこに行ってくれ、あっちに行ってくれ‥」
 などという目まぐるしい注文にどこまで応じる気があるのかと言えば、
 限度というものが伴う。

 なぜなら、多くの者は、自分たちの活性化には協力するにせよ、
 自分たちの暮らしの外にある次第にそれほどに熱心では無いからだ。
 ‥そもそもにして、地元をお留守にした夢など「誰が悦ぶというのだ?」

 それこそ外に縁でもない限り、お安い御用には成らないのである。

 人権になぜ基本的が冠されているかというと、
 人の心理や地域色についての基本的な方向性を尊重するという意味に他ならない。

 ‥何々が不満で嫌なら嫌との発言をする権利を認められるのだ。

 まぁただし、法治国家での基本的人権ゆえ、発言までは認められても、
 それがどこまで抗力をもたらすかは、賛同の大きさで決まってくるまでの話だ。



1-4)2
 基本的に嫌なことでも、誰しもは、
 上の命令という奴に従わなければならないものだと思っている。
 ‥否、思い込んでいる。そうしなくてはやっていけないものだと決め込んでいる。


> 其は、男の夢の悲しき性とも言えるだろう。


 男の夢の見方は、どう転んだってなぜかナンバーワンなのだ。
 それゆえ、託した以上、命令に対してなぜか忠実だ。

 一方で、

 女の夢の見方はオンリーワンである。
 オンリーワンであっても、いつの間にか横並びで共有しているという空気を持つ。
 それゆえ、託されようと託されまいと、自分たちの輪にならないことには興味が無い。

 ‥男社会と女社会の相容れ無さはこんなところに起因する。



1-4)3
 男と女を公平に扱えない会社経営的な事情は、出向命令の中身に多く見られる。

 出向させた先で、辞められてしまったら、
 出向命令を出した側の顔が丸つぶれになる。
 それが出産休暇でも、結婚退職でも同じことだ。(単に、確率の問題)


> そもそもだ、


 女が夢の一つとして、「家庭を切り盛りすることです」と胸を張らない社会は糞である。
 なぜなら、社長の本懐に「社員は家族である」とする意がなかったら意味が無いじゃないか。
 ‥そこを意識していれば、女社員の扱いはどうしたって二の足を踏むことになるのだ。

 差別とかなんとか、そんな言い方を考える前に、足元をよく見るべきである。

 その上で、女社員が活躍できている環境を築いている会社経営というものを
 正しく見るべきだろう。


> しかし、


 世の中に溢れる出向は、そんなできた形にはならない。

 何を好きこのんで外国にまで足を伸ばさなければならないのだろうか‥
 (国内だって考えどころじゃないか)
 人材なんてものは、現地主義、現地調達だ。
 自国でも同じように発展を見たければ、それこそ「お前等の方から学びに来い」である。



1-4)4
 人権がどんなに私たちの為にあると言っても、指揮権は私たちのためにはない。
 指揮権はいつだって、誰かの勝手な夢のための権利でしかあれていない。


> その勝手な夢に賛同してしまうのは、誰だ?
> その勝手な夢に依存してしまうのは、なぜだ?


 自分の夢の方が小さいと思って負けた者の集まりがそこにあるばかりなら、
 命令は尊重されるばかりだろう。

 お互いの夢の吸収合併がそこにないのなら、
 命令はいつまで経っても命令のままでしかない。

 指揮権を人任せにした段階で、人権は放棄されたと解釈されると思うべき事だ。

 夢の吸収合併が望めない場所で、いつかは自分の夢をなどと考えること自体が最悪だ。
 ブラックを望まずとも、ブラックとして参加している自分がそこに居座っている事になろうか。
 ‥指揮権の暴走が許せないのなら、日陰思考は改めるべき課題である。


> それが私たちの日常の心得でなかったという次第がそもそもにして問題になっているのだよ。


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posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:42 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする
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