改稿.2015/09/23...20140914...
通常、マンガやアニメの表現は客観表現である。
その結果、脇役が主人公や物語状況について語るという表現方法が確立している。
‥ピアノの森は、まさにそこで行き詰まったと言えるだろう。
> 聞こえない音を誰に解説させて、どう読者を納得させるのか‥
だから、そこに至るまでの付き合いの延長上に居たキャラクターらに、
どんなに一ノ瀬海のピアノを紙面上で賞賛させようとも、
最終的に審査員の人間性を描かないのなら、勝敗なんか付けられたもんじゃない。
しかも賞の対象は、ショパン・コンクールという大舞台かつ外国文化の色濃い主題だ。
どんなに日本の読者がおおらかでも、そんな雲の上の舞台の話にリアリティーなんかない。
> そもそもにして、ピアノ=ショパンではない。
> ピアノ=海を描くのに、ショパン・コンクールでの優勝はゴールではない。
読者からして、ショパン・コンクールのことなんかよくわかってない訳で、
サクッと一度は敗れるなりして、
素直に自分の音楽に対する思いを振り返っていく時間をカイに与えるべきだったろう。
(途中までしか目を通してませんのであしからず。)
その時、再びショパン・コンクールに挑戦させるにしても、安直すぎては面白くない。
描く方もしんどい。読む方もしんどい。
そもそものカイの育ちが育ちなんだし、負けて自分の音楽を探し始める展開の方が自然だったと思う。
‥日常の音楽家の視点からしても、そっちの方がほっとするはずだ。
(その上で、因縁に誘われるように再挑戦の展開なら、読者も音楽家の目からも納得だ)
> 主人公のなりや状況を、客観的に脇役の口を通して解説させる手法は、
読者にはわかりやすく聞こえはしても、
舞台を変えるたびに、脇役を作って、立たせてを繰り返さなければならない。
だから、事前にそのことを頭に入れて、物語を作る必要がある。
ところが、読者が見たいのは、そんな解説役になったキャラの人生回想や持論ではない。
‥そういった点で、実に面倒くさいし、目障りになりがちな手法だ。
> そういう意味で言うなら、
キャラが立つ展開とは、主人公が出会った人物や物語の展開から受ける影響であって、
主人公自身に、その出会いや展開から、興味の方向性や心の変化を感じさせることが大事だ。
主人公が「奴はどんな奴?」て思うなら、問答無用で、脇役の人生回想を描くのが当然の流れになる。
そっちの方が、面倒にならない。
人生考えたって、そんなもんだろう。
自分一人で自己解決できたり、勝手に方向転換しているような奴は、
却ってわからない奴というだけの話だ。
‥それをわざわざ「俺はお前のことを理解しているぞ」‥なんて解説はくどいだけである。
で、その手の解説手法に慣れた作り方をしていると、
いつの間にか、主人公が疎かになっちゃってたりする。
(成長するヒーローを描きたいのに、ただの被害者妄想を邁進中だったりとか)
脇役が主人公に影響を与えるにしたって、主人公が成長しないなら、
脇役の構成までが堂々巡りになりかねない。
しかし、一方で
中には心の成長なんか見せずに、そのままが完成形で突っ走ってるキャラも居るわけだが、
‥まぁそれはそれだろうね。
一ノ瀬海は、多少そんな感じの奴だから、負けたって持ち直すだろう。
逆に一発で優勝させてしまう方が、つまらないのかなと‥
レッスン漬けで、何かを忘れていたとするような後付けな発見を、作者が用意できていれば、
サクッとショパン・コンクールで負けたってなんら不思議はない。
‥それが、そもそものテーマである「ピアノ=海」を描くってことの次第だったように思われる。
> 否、"ピアノの森"なるタイトルからイメージされて来た読者側の期待感だったろう。
雲の上の調べよりも身近な調べ。身近な調べからの洗練と到達。
それが、”ピアノの森”のタイトルからイメージされる音楽観だと思う。
「それともなんだ‥作者のショパン観がピアノの森とでも言いたいのか?」
‥そんなのは読者的にどうでも好いことさ。読みたいのは作者の持論ではないのだから。