2014年09月17日

【命題】心が感動で同調している時、お互いの脳内は同じパルスを示すか?

1-4)記稿.2014/09/17
 "臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか"より抜粋
 立花隆×ケビン・ネルソン教授(ケンタッキー大学医学部脳神経外科)の対話から


「なぜ神秘体験をする能力が人間の心に備わっているのですか?」

> 良い質問です、私も知りたいです

> 神秘体験は意識と現実の間で作り出される感動的で根源的な現象です
> しかし、その詳細はわかりません
> そもそも科学は「どのような仕組みなのか」を追求するものです
> 「なぜそのような仕組みが存在するのか」と問われても答えられません
> 私たち科学者に言えるのはどのようにして神秘的な感覚が生じるかだけです
> なぜか?という問いへの答えはそれぞれの人の信念に委ねるしかないのです

> 神秘的な体験をするとき脳がどうのように働くのかという科学的事実は
> 誰の信念を変えるものではありません
> 脳は必ず神秘的な体験に参加するようにできているのですから

> しかしそれぞれの人が体験した神秘をどう受け止めるのか
> 必ずしも科学で説明する必要はないのです



1-4)1
 つまり、意識に生じるすべての思考活動は、現象であり、

 その現象の備わりの一つ一つの在る意味を考えるのではなく、
 どのような仕組みで、どのように働いて、
 どのように医療として調整できる余地があるのかを考えるのが、脳科学だと‥


> これこそが、西洋と日本の思考の差と言えるだろう。


 大体だ、妄想もまた現象だと言わんばかりのそれを科学として位置づけるそれは、
 脳科学の姿勢としては正しいのだろうが、物理や化学の世界では論外にされる対象だ。
 ここに於いて脳科学は、多少は思考自体を現象として扱うようになったということか‥



1-4)2
 それにしても‥先の神秘体験の文言を、良心に置き換えると途端におかしな論になる。


> 良心とは現象です。
> どのようであれば良心たる感覚が得られるのかが脳科学なのです。
> なぜ?それが良心かという問いには、それぞれの人の信念に委ねるしかないのです。
> それぞれに生ずる良心を科学で説明する必要はありません。


 否、良心とは実践だ。
 何もしない人を良いとも悪いとも誰も判断しない。
 なのに誰しもは自分を良い人だと判断する傾向を持つ。

 この感覚の違いは、脳の働きや経験からではない。
 それこそ自我と呼ばれる感覚なり感性からもたらされている。

 「‥そのように考えてしまうのもまた脳の働きです。」


 まぁ確かに、言いくるめ方に矛盾が無いように見える。


 しかし、日常において、かような良心など何の役にも立たない糞だ。
 役に立つ良心とは、他人の心の扉を開けるのだ。
 人の信念に委ねることではない。呼び覚まさせるのだ。

 そこにコンタクトが起きたなら、
 脳の働きが伝播したと‥脳科学では予想立てることになりそうだ。

 気持ちが伝播する現象は、脳だけのコンタクトではない。
 現象と現象とのコンタクトと言うべき結果がそこに在らんばかりだ。
 私とあなたの全霊がぶつかり合ってようやくにして響き合ったのだ。


> これは、脳だけの働きで為せる次第ではない。
> だから人は、魂なりスピリチュアルなりを口にするのだ。


 西洋の科学観には、この全身全霊での衝突を科学に取り入れる姿勢がまるでない。
 触れ合いのパルスは脳の反応だけでは起こらない。わたしとあなたの全身全霊での現象だ。



1-4)3
 常に全身全霊で向き合う日常を意識していると、
 全身全霊で向き合って、
 向かってくる奴と向かってこない奴との差がどうしても気になる。

 だからこそ、そこの違いがなぜ生じるのかで、首を捻ることにもなる。

 「なぜ神秘体験をする能力が人間の心に備わっているのですか?」という立花隆の質問は、
 日本人にしてみれば、ありふれた感覚だ。

 ‥「あの者にある感性とこの者にある感性はどうして違うのか?」でもある。


 仮にそれを、

 生まれや育ちによる影響であり、結果的に経験の違いが脳の構成の違いに発生していると
 解釈しようとも、その呪縛を解き放つには、
 救わんとする医療側の誠意があったればこそに成るだろう。

 ‥そしてそれは常に同じやり方で同じ結果が導き出せる代物ではない。
 (そりゃそうだ、余計なお世話だったなら尚更だ)

 同じやり方で、同じ結果にならない様を、科学と言うかはさておき、

 そこに光が見いだせたとき、人は感動を覚えるものである。
 この感動を得るプロセスにしても、脳の働きだけを観察しても意味は無い。
 (‥脳という分野だけで思考のすべてを取り扱おうとしていると、火傷をすることになる。)



1-4)4
 生命を、生物を、それだけを切り離して、単にして扱うことにしか視点のない科学など、
 もはや時代の空気から外れている。

 ‥複合的な、様々な組み合わせなり、
 環境なりの中で、誰しもが同じ反応を示すなどということはない。


 医療としての効果をそこに見いだそうとするための科学にせよ、


 最終的に得られる壁として、
 神秘体験=サポート存在の有無を、人は意識せずにはいられない事実をどう見るかである。
 ‥それはそのままに立花隆のここでの質問に立ち返ることになるのだ。

 「なぜ神秘体験をする能力が人間の心に備わっているのですか?」


> そこを科学しようとしない脳科学、脳治療なんか糞。


 備わっているんだから積極的に活用しよう‥そんな流れで療法を見いだされても、
 脳内麻薬のベストコンディションを割り出そうってのと同じことで、
 コンディションを整える上での哲学を示さずに商売するのと同じ。

 このような脳の使い方を脳に覚えさせると天才になれます‥なんて言われても、
 あなたが天才としたモデルとは誰ですか?ってところから始まって、
 私という人物を理解してもらうためにも、
 私の脳の使われ方をあなたの脳で再現してみましょう‥なんてことになる。

 ‥そもそも環境も経験も違うのに、
 脳のパルスの流れだけをシミュレートできたとしても、同じ感覚には成らないはずだ。
 何か違った体験は出来るかも知れないが、そもそもにして、それは有り得るのだろうか?

 脳の働き=同じ傾向としての分類を調べれば、同じ結果を得るヒントになるとの見解は、

 心と心が同調する現象のそれを愚弄しているように思える‥
 同調しているときの脳のパルスがどうなっているかのレポートはまだ聞こえて来ないので、
 ‥まぁ何とも言えないが、同じ感動をするにせよ、それがまったく同じということはない。
 理解するといっても、それぞれの方向は違う方向から接近したのだから、
 理解の仕方もそれぞれであるはずだ。

 まったく同じパルスでなくても理解し合う同調現象は、脳内において起こると予想する。
 ‥予想が正しければ、
 その時、同調を生み出しているのは、別の何かと言うことになる。それが科学的見解だ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 01:56 | Comment(0) | 目の付け所をナス | 更新情報をチェックする
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