2014年10月01日

【刮目】認知度%と購入支持%のトホホな関係

1-6)改稿.2014/10/01...20140927...
 勝ち続けられる確率1%、即ち‥
 認知度の%から、支え続けてくれる固定支持率もまた1%である。

 「1%って、そんなアホな‥」

 こんな話をすると誰しもが耳を疑うに違いない。
 (まぁもっとも、競争社会が前提での話だ)


> しかし、勝ち続けられる確率を相互的に見て、翻せば、それは‥
> 支え続けてくれる確率に置き変わるのだ。
 (まぁもっとも、競争社会が前提での話だ)


 実際、日本の人口を1億人とすれば、その1%は100万人である。
 俗に言うミリオンセラーの規模ということになる。

 ‥認知されている状況とは、何やら、それ以上の意味を有さないと言えそうだ。
 (まぁもっとも、競争社会が前提での話だ)



1-6)1
> 例えば、マンガ週刊雑誌で考えてみよう。


 仮に1000人の児童が居るマンモス小学校ならどうか‥
 日本で普通に暮らしている限り、もはや誰しもがマンガ週刊雑誌の存在を知っている。

 しかし、

 実際には、立ち読みでさえ毎号読むかどうかとなると話は別だ。
 特定作家の単行本を、買うかどうかと言う段階になれば尚更である。

 仮に、そのマンモス小学校での読者数を児童の半分と見立てれば、
 特定作家のマンガ単行本を買ってくれる人数はその中の1%だけとなる。
 1000人もの児童が居て認知されているはずなのに、その数5人にしか買って貰えない。

 一億人の人に対してそのままを勘定すれば、
 50万人程度である。


> 単行本四百円、印税率10%なら、二千万円規模の収入か‥


 二十年で一億冊売れたとしても、平均すれば年間500万冊。
 伸びしろが10倍に増えたように見えても、マンガの性質上、
 特定読者が10冊以上(全巻購入)買っているだけでしかない。

 ‥残念ながら実際は、読者層の規模がより狭いか、購入支持率がさらに少ないかである。
 (まぁ問答無用で後者だろうな。)

 もはやマンガ文化は、生活必需品のはずなのに、
 生活必需消費目の内訳に入らない存在観としての扱いである‥
 ヒット作品または人気作家でもそんな程度と言うことだ。



1-6)2
> ならば、何故に、何をすべきかである‥


 人気稼業は当たればボロ儲けの印象ばかりが先行しているが、
 実際は、手堅く日常の生活感の中から、需要を掘り起こしても同じだと言うことだ。
 (‥どう考えたって、マンガ家よりは時間は持てるだろうからな。)

 その手堅さにしたって、
 100人の村に直して計算すれば、一人の人を支える・支えられれば十分だとの回答になろうか。

 とりあえず、役に立つとか立たないとかの日常での物の見方にしたって、
 その実の声援の度合いにもなると、一人分の規模でしかないということだ。


> なんであれ、一人分を大事にしない者は、論外ということだ。


 それはそのままに、
 一人の人から頂ける何かなんて高が知れた間柄ってことだ。

 ‥で「掻き集めたい物は何か?」「手にしたい物は何か?」
 (競争社会だからこそ、尚更余計に考えざるを得ないといった所か)



1-6)3
 ブログを書く・読むの日常で気になると言えば、その1%の見方である。

 ブログを長らくやっていると、自分のブログを囓った読者の総数が気になるところだ。
 誰かの人気ブログにしてもそうだが、知っているだろう実数をどう勘定すべきかである。


> だからこう考えることになるだろうか‥


 おおよその平均アクセス数を1%に見立てれば、述べ実読者数その100倍との見方になる。
 勿論、この見解に信頼性は無い。
 そもそもブログの読み書きなんて、不定期がお約束みたいなもんだからな。
 (ならば、お互いの気まぐれを掛け合わせれば、その4分の1程度か‥)

 それでも、ある程度長い間の執筆で、伸びを得ている手応えが時々にあるようなら、
 そう考えたって良いとは思う。
 ‥それにしたって25倍だ。それ以上の期待値なんか発生し得ないという訓告である。


 ※ "民立主義へのVision"で言うなら、
 ギリギリで、述べ実数千人の読者数は得ている程度になるだろうか。
 宇宙全史によれば、千人の規模で認知し合えば、現実世界に影響を与え始めるんだそうだ。
 (ギリギリとんとんで、まだまだこれからだ。)



1-6)4
> 自動車産業なんかで考えると‥


 中古なり、海外に中古パーツが流れているなどの状況を思うに、
 年間の平均販売台数に対して、その25倍程度のすそ野がありそうに思えるにせよ、
 それを全部ゲットしようなんてことを考えても意味が無いと言うことだ。

 ‥すべての人に新品は必ずしも必要ではない。
 必要なのは、心に響かす一つであるということだ。それが1%の意味なのだろう。
 (日本人が新品にこだわる以上に、中古でも響かすことは可能だったのだ。)


> 中古で良ければ、結局、過去の自分たちがライバルの世界観である。


 ‥誰かが何か役に立つことをしでかしたにせよ、
 その事象の25倍を超えた以上のすそ野は形成されることが無いと言えることになるだろうか。
 (人口規模の限界以上はもちろん超えられないわけだが‥)
 (超えられないなら超えられないだけに、ライバルは過去の製品ということだ)

 そこに得られる100%をどう見るかは人それぞれだろう。
 (どちらにせよ、手を抜けば儲かるなんて考えるのは馬鹿のすることだ)

 ‥未来に繋げる100%であると考えるなら、
 今の1%に嘘が紛れれば、未来に繋がる100%枠を期待しても届くはずもなし。



1-6)5
> そもそもの今の技術観そのものが、


 生業を維持するためだけに、その数を経済数値の辻褄として求められているだけのことで、
 必要なくても全然構わない生活観がもたらされれば、一気に薄くなる在り方でしかない。

 そして今や、生業を維持するためだけに、先を見据えた選択を迫られよう。
 (‥必要がどれだけのことなのか、何のために続けているのかの熱が冷めている)

 それが果たして、人の求める生活観の延長に位置するのかどうかさえ怪しいのに、
 技術の対峙が先行するばかりで、足元の暮らしが疎かになっていたりする。


 経済政策ともなると尚更で、
 投資家の論理がどれだけ足元の暮らしに根付いているのかで置き換わるばかりだ。
 (利益主義だからな、まずは自分の力の確保こそが優先であることに変わりはない)

 ‥実際、投資家の根っこにあるのは、先方の熱意は妄想の範囲でしかないということだ。
 (先方の熱意に投資をすることはない、誰しものライバルは自分なのだ)
 (投資家心理とは、自分の直感に投資するしかあれない代物である点に尽きる)

 マンガという生活必需品でさえ、
 なぜ庶民の生活必需消費目から外れてしまっているのかという点においてだってなおざりだ。
 (‥そもそもが、作品なんか水ものだ。そして投資の案件としての獲物はいくらでもある。)


> この現実を問うならば、お互いに夢ばかりを追いかけて来た顛末とも言えるだろう。


 その昔、上から目線で、
 絵描きや音楽好きに向かって吐いてきた言葉通りの行き詰まりがそこにある。

 夢ばかりを追いかけて、結局は環境を壊す・命を落とすばかりのどん底を見いだしたのだ。
 ‥そこを置いといて、人の役に立ってますます繁盛などというのでは、ちゃんちゃらおかしい。

 市場シェアの奪い合いなんて、夢ばかりを追いかけても、
 「結局どうなった?、え?」
 足元の社会性はガタガタだ。それこそ、そんなくだらない夢なんかいらねぇんだよ!!
 (まぁもっとも、競争社会が前提での話だ)


> どうせ、どこまでも、ご贔屓支持率は1%でしかない‥
 (病気して、見舞いに来てくれた確率だってそんなもんだろう。)


 ‥にもかかわらず、そのように見えてこなかったのは、
 たまたまそれが時代の空気だったからという程度の方向観でしかあれていなかったのだ。
 その先に未来が描けていないのでは、今のどん詰まりという1%が限界の器でしかない。
 (まぁもっとも、競争社会が前提での話だ)

 ‥今更にその先を描こうにも、インチキ経済に汚染されたままじゃ、夢のまた夢である。
 (カネ以外の価値観が成り立たなくなった不可解こそを疑え!)


> そもそもの、絵描きや音楽好きに吐いてきた言葉の意味がそこに立ちはだかるばかりである。


 ‥一発を当てるのではない、文化の担い手としてやって行けるかどうかだ。
 何事も、物に成るかどうかへの問いただしとは、
 何も自分という単位だけではない、まわりに恥ずかしくない精神面が問われて来たのだ。
 (勝ち逃げして良いのが、競争社会との勘違いを植え付けたのは、お互い様だ)



1-6)6
 支える・支えられるのたった1%の間柄の関係は、
 お互いが未来に繋げばこそ、全体に波及する100%たれるのであって、
 何も、今そこここの支持率100%志向に、それ程の意味など無いのだ。


> 未来を見通せずに、お互いに市場シェアがどうのとか言ったって、なんも意味ねぇ。


 投資家だって、右往左往に大忙しなんだからな。

 右往左往の連中の未来観なんぞ、
 所詮、先にどこが台頭するのか、追いかけて伸びるのはどこか‥なだけである。

 ‥そこに未来なんか関係ないだろう。
 経済という曖昧を以て、世の中を支えている気になっているだけだ。


> 上からして思い込みだけなんだから、下は実に迷惑なだけだよ。


 カネを入れたって、ヒトを入れなきゃ産業は定着しまい、
 ヒトを入れたって、あっちが傾くから駄目などと投資家が勝手を抜かして居れば、
 未来なんて来るわけがない。

 それで、お互い様とばかりに、実入りの良い方に偏るのが当たり前では、
 「一体全体、何がしたいの?」


> 採用面接に適当な人材が現れないのは、そもそもにして鏡似性である。


 日々の活動を通して、社会に問うている姿勢の結果として、該当人材無しなら、
 選ぶ方にも該当する何かを持っていないというそれだけの合わせ鏡ということだ。

 「私より優秀な人材が欲しい‥」

 何言ってんだよ、それじゃなんだ、大企業なり起業家という奴は、
 基本的にしたいことと自身の能力が一致せずとも、知識だけで何とかなるとでも思ってたわけ?
 ‥かぁ、そんなの、採用面接で落とされる発想だろうが。(それが鏡似性なのだよ。)


> その一人を大切にする心意気の鏡似性、だからこその1%規模での支え合いの現実単位‥


 (‥人間は実質、壱以外に割る手立てが無いからな)
 (その一人でさえ、迷うのが日常だ、期待値なんかお互いに0.5%程度でしかない)

 (‥まぁなんだ、なかなかどうして「人生とは青春である」みたいな話ではある)
 (でも競争下での青春に、何を求められるって言うのだろうか、嘘ばっかのくせに‥)
 (使い捨てられでものぼせてみたい‥そんな恋でも、格好さえ良ければ大方が◎なんだからな)
posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:51 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする
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