2014年10月01日

【謎】高床式建築はいつどこから日本に来たのか?

1-4)記稿.2014/10/01
 今年の夏だったか‥中国の国宝についてNHKで特集していた。
 日本との戦争の最中、伝来の国宝を洞窟に隠す時に、
 洞窟内に高床式住居を建てて湿度等の劣悪な環境下から国宝を守ったという逸話があった。


> そのとき、「中国には高床式の文化は無い」と語っていた。


 国宝を管理する立場の者が、確かに、中国には高床式の文化は無いとの認識だった。
 苦肉にも敵国日本の文化にヒントを得て、高床式を取り入れ、国宝を守ったと言う。

 ‥著生はこの話を聞いて腑に落ちない部分を感じた。

 中国に高床式建築の文化そのものがまったく無いのなら、
 「高床式はどこからいつ来たのか?」
 弥生時代に伝来した水稲栽培と一緒にやって来たのでは無いとの疑問がもたげだしたのだ。



1-4)1
 インカ文明からもたらされたポテトは、
 西洋を経て、インドネシア経由で日本にやって来た。
 そのジャワ島ジャカルタ(ジャカトラ)経由でやって来たので、
 ジャガイモと呼ばれるようになったという。

 ※ 1557年、ポルトガルは明朝からマカオの居留権を得て日本との貿易を開始した。
 日本人がジャガタラに進出する切っ掛けとなった。by wiki
 (長崎の出島に持ち込まれたのが始まりだという。)


> ちなみに、


 Javaneseとは、ジャワ人のことで、
 Japaneseとは、日本人のことだ。

 Javaはジャワのことで、Japanは言うまでも無い。

 そしてジャポニカ米とジャバニカ米(ジャパニカ米)との違いは、
 温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの違いで、共に分類はジャポニカである。
 ‥ジパングとは、ジャワ人の移動した島って意味なのか??
 (ジャワに日本を示すような神話なんてあるのか?)

 ※ ジャワ近辺の神話をネットから拾い読みする限り、
 日本の昔話をすんなり受け入れてしまいそうな距離感はありそうな感覚‥



1-4)2
 日本にある里芋は、タロイモ類であり、
 この主の芋の発生は、東南アジア地域だと言われている。
 ‥そして東南アジア地域には、高床式住居がごく普通に見られる。
 (トバ・バタックの高床式は、とくに際立っている)


> つまり、陸稲も里芋もどちらもジャワ絡みだったということになるのか‥


 日本に大陸から水稲が伝来する以前、
 東南アジア方面から陸稲が先に伝わったものとして考えることができ、
 そのついでに、タロイモの系譜もやってきたと考えるのが適当かと‥
 ‥当時のタロイモは、日本の気候にはあまり適応できず、小型化していったと想像される。

 なぜ、東南アジアに於いて、陸稲だったかは、鉄器の精錬が出来なかったからと思われる。
 (水路を存分に行き渡らせるには、それなりの道具革新が欠かせなかったはずである。)



1-4)3
 さて、ここに一つの疑問が生じている。


> それは竪穴式住居との兼ね合いである。


 構造的にも、竪穴式住居は、四季のある日本に適した形態であり、
 南洋の高床式住居では、夏は良くても、どうしたって冬は寒かったと思われる。

 ‥高床式では、存分に火が焚けないし、下が雪では尚更に保温効果は得られまい。
 また、風が吹き込んで暖かい空気が横に流れてしまわないように、
 竪穴式では、程度地面を掘って保温効果を上げたのだろう。

 どう考えたって、土着の人々が、
 新しく渡来してきた人たちが建てた高床式に興味をそそられたとはとても思えない。


> つまり、高床式は、太平洋側で雪の降らない地域で見られる程度で残ったものと思われる。
> ‥また、なぜ高床式が残れたかが、とても重要だ。


 陸稲は、日照りの被害を受けやすかった。
 乾燥に弱いのだという。

 それでも、木の実を拾って主食にしていた文化形成からすれば、
 その米の味という奴に歓喜したはずである。
 その違いが米の優位性を持ち上げ、
 その象徴として、高床式が権威を示す要素に発展したと考えられる。

 また、陸稲は連作障害が発生しやすいとのこと‥

 その合間に、育ちは悪かったにせよタロイモ種が宛がわれたと思われる。
 次第に里芋のような形態に変わったのではないかと‥



1-4)4
 北路経由で、マンモスの骨で住居を築いていた民族が日本の地に到達。
 骨の代わりに、木材を用いた竪穴式住居に発展か‥?
 狩猟と木の実と浜辺近くで拾える貝が食の主流だった。

 南洋経由で、陸稲とタロイモ種が伝来。
 同時に舟技術と漁法を得る。言葉に変化が発生。食文化が格段に豊かになった‥

 出雲を始めとした各地に鉄器技術が伝来。
 自然信仰が幅を利かせていたことから、鉄器がどのような立ち位置だったかは今ひとつ不明。
 鉄を扱う上で、欠かせないのは衣の伝播である。

 ※ ‥まさか、毛皮を着ての作業はあり得ないだろうし、裸というわけにもいくまい。
 伝統的な出で立ちとしても、この頃から変化が起きている感じだろうか。


> 異文化が次々に渡来。土着の自然信仰に風穴を開け始めた‥


 どんどん木を切り倒し、水路が引かれ、勢力拡大の狼煙が上がりはじめた。
 木が自由に切り出されるようになったことで、住居の在り方にも変化が生まれたと考えられる。

 日照りにとにかく弱かった陸稲は、
 なんだかんだと、収穫量の見込めた水稲にあっという間に切り替わった‥と思われる。

 結果的に、水の取り合い等が表面化して始まった。

 シャーマン的な水乞い祈願は、時代の流れから外れ始め、
 その隙間を縫うように頭角を見せたのが、争いを仲裁できる確かな権威だった。
 (かの者たちは、暦を扱う天文数学の集団でもあった)

 ‥民衆は、自然任せでしかなかった衣食住に対する考えに変化を生じさせていた。
 富を蓄える手段を得たことで、土地に対して優劣の概念が芽生えたのである。


> 自然信仰から来る土着性からか、飢えを凌ぐためだけに起こっていた戦が、
> より豊かな土地を支配するための戦に変化したと考えていい。


 縄文から弥生への変化とは、戦に対する考えの変化が巻き起こった時代の先駆けでもあった。
 その後に来た古墳時代がどうだったかは、ヤマトがどんな王権だったのかという疑問に等しい。

 ‥それを知ることこそ、日本の歴史の根っこを知ることに成り得るのやも知れない。
 (なぜ、封印されているのか‥一体全体、何が飛び出すことになるのやら‥)
posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:21 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする
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