2014年10月27日

【命題】民衆デモと集団的自営権

1-4)記稿.2014/10/27

 戦争は嫌でも、デモなら参加する‥その根っこにあるのは闘争である。
 ただし、闘争が日常の基本原理という程ではない。
 ‥それが民衆だ。


> では、戦うべき敵はどこに居るのだろうか?


 政府、行政、議会‥もとい、利権を握り、裏で糸を引く悪意を持った連中だ。

 「なぜその構図は成り立つのだろうか?」

 そもそもは、税制度に対する理解こそが元凶なのだ。
 なぜ、それが求められてあったのだろうか‥
 それは飢饉対策だった。元々は非常時対応の食料・資材の確保だった。
 だからカネではなく、日常生活に必要な現物で納めるのが習わしだった。

 ‥しかし、どうだ

 戦、統治、そして自由、治安、インフラ‥その維持にカネが必要とされた。
 武器やインフラは、商人から買うことでしか手に入らない‥
 納得してきたのは便利にほだされた民衆だった。



1-4)1

> では、原点に立ち返ったとして、どうだろうか?


 カネではなく、生産物でお互いが納めるのだ。
 勿論、昔とは違い、出来映えにあれこれとしたうんちくが巻き起こるだろう。
 ‥それらが非常時の蓄えとして宛がわれることになるのだから。

 それぞれの出来映えに納得が行かないとか、不十分だとかでお互いにグチグチ言い合えば、
 そりゃカネが一番という落ちにだってなるだろう。
 (どちらにしろ、そこから得た物をまた売って、現金化するしか頭に無いのだから)

 ‥そもそも、それらは輸入品ではあれないのだ。
 自給自足での対応が成り立たなくては、納められようもない話になって来よう。


 そして、給与という形である。

 役人への支払いに淘汰された向きがあるのもカネでの税徴収だ。
 それにしたとて、昔は、王の統括領地内で自給自足された範囲での賄いが基準だった。
 ‥今時代の税制は、特にそこが省略されている。


> 王族や役人が贅沢をするとあっという間に足りなくなった。それが歴史である。


 民主化とは、それを皆でやり始めたというだけのことだ。
 その証拠に足りなくなると、カネ貸しの理屈にへりくだったままである。

 領地内(国内)での生産で、各々の贅を見たそうとすると足りなくなる。だから、
 輸入に頼らざるを得なくなる。その結果、支払いを値切ろうとする国家も現れることになった。
 ‥そこの支払いの辻褄を、何者かに任せ切りで来たのも歴史の等身大である。


 そもそもにして、生産が不足するから輸入に頼るのである。その一方で、
 お互いが得手不手を補えば良いとした状況を得られないのも、グローバル経済の等身大である。

 そんな関係同士で、物で徴収しようが、稼ぎの代金から徴収しようが同じことだ。

 そのどうしようもなさに、易きに同意して来たのもまた民衆なのだ。

 ※ 交易促進の裏には人件費の安さがあり、通貨安・為替のカラクリがあり、
 通貨安のままでは豊かさは享受され得ず、国内格差しか招かない。通貨高すぎても同様。
 要するに、資本競争・通貨競争では、民衆の期待する平道な平和と豊かさは創出され得ないのである。



1-4)2

> 競争をもっともだと理解した瞬間から、誰の査定も、売上の成果次第となった。


 果たして、人への評価とはそれだけでしかないのだろうか。
 まるで、成績の振るわないお子さんのお宅を訪問する担当教師の心境だ。

 しかし、競争を前提にするばかりなら、それ以外の査定など発生し得ないのだ。

 マタハラにしたって同様だ。子育ては企業側の成果には成り得ない。
 社会維持に必要であっても、企業側の直接的な成果としての査定には入らないのだ。
 以前の実績など関係ない。それが競争社会の納め続けなければならない性質だ。
 ‥むしろマイナスでしかあれない。それの見方を許しているのも、安易に競争を承認しているからだ。


 正確に言えば、モチベーションの有り様である。

 競争を了承しているから、そこに均質労働で得られるべき給与が前提となり、
 それを得るために勤めているのだろう。そこはそういう会社だったと言うだけの話だ。
 ‥お互いに、それ以外の原理を意識して活動してきたわけでは無いのが事の顛末でもある。


 被害者意識を全開させるよりは、革命意識を全開して改善させるしかないのだ。
 それにしたとて‥私たちの多くは、競争原理以外の社会体制を知らないのだ。

 そこを意識せずに渡ってきたという愚をもっと深く理解する必要がある。

 吾が身に降りかかってから気がつくのでは、民主的に想像できていたいたとは言い難いのだ。
 ‥其を恥と思えばこそ、尚更に、誰かのせいにもしたくなるのだろう。

 「とりあえず自分は頑張って来た‥」

 だからこそ、このような仕打ちが身に降りかかるはずがないと‥


 それこそ勝ち抜きを前提としただけの自由競争なんだから、不届きはいくらでも起こり得るのだ。
 競争の裏と闇に出る形とは、それ以上でも以下でもない。



1-4)3

> 競争が成り立つ理由として、支配側の都合というのがある。


 彼らは言わば、競争ルール化でのマスターだ。
 競争ルールである限り、自分たちが勝つことを自負できている連中だ。
 なんでも有りのルールに見えずとも、実権を握っていれば何でもあり同然だ。

 そうではないと賄賂を受け取らずとも、脅し等に屈すれば同じことである。

 皆でしたことが、小さな規模下での競争の了承であったとしても、
 世界的な規模で渦を巻けば、暴力と化するのは必然。そこを牛耳って彼の者たちは今に君臨するのだ。
 ‥それに対して、私たち民衆は、何の対応策も立てて来てはいないのだ。

 それで、民主的善良を勝ち誇っているかの如しである。

 それぽっちの善良など、競争ルールのマスターたちからすれば、赤子を捻るようなものなのだろう。
 なんの実行力も価値も無いといわんばかりにね。


> そんな民衆に唯一残された手段が、民衆デモである。


 デモの見所は、彼らがどのような条件で和解するのかに懸かっている。
 そこに有ったものが「何か?」を問われるのだ。
 ‥ただの不満だけだったなら、甘い条件に屈しもしよう、しかしそうで無い場合は終焉すら見えまい。

 とっととデモを終演させたいと思っているのは、支配の側でしかない。
 折れる必要があるとすれば、それは支配の側である。デモの側に求めるべき次第では無いのだ。

 それにしたとて、

 デモする側にしても、新しきビジョンを携えて闘争しているわけではない。
 往々にして、右と左を比べてどちらかを上策としているだけのことだ。
 そのどちらにも支配搾取の構造を有するなら、何の意味も無きこと。


 ‥そうだ、

 その者たちに、それだけのビジョンを提示できる革新的具体案が有ったのなら、
 激しいデモ運動になったとしても、きちんとした争点が提示され、説明されるばかりだろう。

 ‥そこが無いと言うことは、
 明らかに迷惑を抱えた不祥事を起こしていると言われても仕方のなきこと‥
 それにしたとて、デモの主要因が支配搾取の側に有ることは、変わることなき事実である。



1-4)4

> 私たちは、同国有権者による一定規模以上の国内デモが生じた場合、


 現対象は、速やかに政治運営を停止して、
 徹底した話し合いの場と、情報開示の場を設けなければならないというルールすら持たずに、
 民主化を口にしている。

 そのようだから、裏で管理されたままに留まるのだ。

 もっとも、裏で糸を引く輩を、公の話し合いの場に引っ張り出すまでの権限など無い。
 権限が有ったとしても、誰がラスボスであるかなど、多くの者は知らないのだ。
 ‥影武者がそこに居るばかりなら、表向きの権利者と話し合うしかないではないか。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:20 | Comment(0) | 命題 | 更新情報をチェックする
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