2014年11月08日

【命題】公私の興廃この一生にあり

1-2)改稿.2014/11/08...20141103...

> 「公私の興廃この一生にあり」


 上の文句は、
 彼の戦時下で使われていたあの戦闘用意な文言を、民主社会下風にもじってみたわけだが‥
 当時の何が凄いかって言うと、
 そこに団結していた得体の知れない結束というか‥滅びまいとする抗戦意識だったと思う。

 一言で言えば、「やまとのたましい(日本魂)」である。

 日本人のテーマって奴は、いつどこでもそうだが、
 ある意味で日常の正論ではあれども、ある意味で大げさな気がしないでもない。


 「公私の興廃この一生にあり」


 なんて表現をしてみると、まさにそのまんまに迫ってくる感じが
 実に日本人の性分、否、日本のテーマを思わずには居られないのである。



1-2)1

> でも、「そんな気持ちで生きていますか?」なんて話になると、どうだろうか‥


 ‥何でもかんでも競争で
 何でもかんでも自由にやっちゃって下さいうんぬんな空気だと、
 どうしたって、力なんか出てくるもんじゃない‥湧いてくるのは欲ばかりだろうか。

 ‥「周りがどうのは関係ない」のもまた理屈と言えば理屈ではある。

 それでも、周りが勝手気ままに人道の何たるかも解体して、好き勝手にやり始めようなら、
 そこにはもはや、やまとのたましいなんぞ何も培われていないかの様に見えてくる。
 ‥それでも空気として、「公私の興廃この一生にあり」の響きは心の底にこびり付いてるのだろう。


> まずひとり一人、自分から意欲的にならないと始まらない。


 自由ばかりだと、誰かがやってくれるという頭しか育たない。
 それは結局、「やまとのたましい」では無い。

 日本人を自負して胸を張ろうなら、
 まずは、「公私の興廃この一生にあり」を背負っているということになるだろうか。

 なればこそ、「日本人として、正しく導かれるべきだ」と思う次第になるのだ。

 「正しく活かされたい欲求が、湧いて出てくるのが当たり前、それが日本人!」
 それはある意味でどうしようもなく受け身の姿勢(全託)を見せる所だが、
 ‥勘違いをしてはダメだ、備えあってこそ成り立つ由を熟知した上での形だって事だ。


> 何ら備えていなければ、ただの依存にしかあれない。


 どれだけ役に立ったとか、どれだけ高貴にあるとか、そういうのは関係ない。
 「公私の興廃この一生にあり」として、何を胸に刻んで積み重ねて過ごしているかである。

 それが備えというものであって、
 備えを兼ねての競争をする意味なんか始めから無いのである。それが本質である。


 ‥されど、いつ何時に役に立つかも知れない蓄積は、一歩間違えばゴミの山にしか成らないものだ。
 それの意味で問うなら、ただの自由主義なんかそれこそ糞でしかない。

 資本競争に勝つためとばかりに、余分を削ることしか頭に無い。
 削った挙げ句に、備えが無いとなれば、早い者勝ちなり奪うことしか頭に無い。
 ‥終いには、普段からのその余分を、頭から赤字と罵るばかりじゃないか。

 そもそもにして如何にライバルの生産を削らせて、自分たちが造れるかという競争だ。
 役に立つという意味からすれば、本質に於いて、何の意味も無い。
 ‥相手のしていることは、すべて無駄であって欲しいとお互いで願っているんだからな。



1-2)2

 「やまとのたましい」 > 「ただの自由主義」‥である。

 精神に負荷が掛かる様に感じられるのも至極当然で、
 ‥そこから逃げようとしても、逃げられないのが日本人の空気だって次第なのだろう。


> 「日本」=「骨を折るのが当たり前」って事なんだと理解すべきである。


 その全体での積み上がりが、神として成り立つのであり、
 そこに八百万の神たる形が織りなしているのである。
 そこに芽出度きを目出度いとする祭りが催されるのである。

 ‥その有り様に至るまでの生命観・自然観・循環こそが、やまとのたましいである。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 01:07 | Comment(0) | 命題 | 更新情報をチェックする
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