2014年11月04日

【刮目】野球ルールで説く経済格差のうんちく

1-4)記稿.2014/11/04

 野球は九対九のスポーツだ。それ以上の人数を増減させることはできない。
 それがベースボールが時代を経て得た適数である。

 資本社会の市場拡大は、その淘汰でさえ、市場原理の下に改善を要求するものである。


> 例えばこうだ‥


 もっと多くの者を出場できる様にした方が、公平である。
 これは、規制緩和をもっともらしい意見にした場合の説得論である。

 そこで、次のような案を提示したとしよう。

 出場できる人数を増やすため、
 ピッチャーに用いられているDH制度を自由化。
 何人でも、どの守備であろうとも、DHを適応できる。

 つまり、

 攻めは攻め専門、守りは守り専門にすれば、
 最大で、十八対十八の出場枠が確保されることになる。


 ‥資本社会と民主主義の組み合わせは、常にこのような応酬が繰り返されるばかりである。



1-4)1

 さて、攻めと守りを分離する案を、
 兵農分離になぞらえて、「攻守分離」と呼んでみるとしよう。


> 果たして、野球ルールの攻守分離は楽しいのだろうか?


 野球の醍醐味と言えば、投手戦である。
 なぜなら、ピッチャーが凄いとバッターの値打ちも上がるからだ。
 その片手間として、守備は時として待ちぼうけにハマことになる。

 攻守分離が為されることで、
 守備の待ちぼうけ率は上昇し、それはそのままに、何もできないつまらなさの増加を意味する。
 (まさに、名ばかりなんとか‥)
 その一方で、バッターの役回りは人気を博し、偏ることになる。
 まぁ当然だ‥とどのつまり、野球とはそういうものだからでもある。
 (人気のある稼業に人が殺到し、結果として誰も食えない状況が生まれる‥競争過多)


> これが俗に言う安易な規制緩和の末の果ての流れである。


 そこで、守る側の意識改革が求められることになるのは言うまでもない。



1-4)2

 例えば‥甲斐孫六(マンガ)ほどでは無いにせよ、
 ドカベン(マンガ)張りにバッテリーをセットで用いる主旨を推奨するのである。

 すると、打たせて取らせるのが守備の側の結束を支えることになり、
 三振を狙える豪腕ピッチャーは、あくまでリリーフ起用ということにだってなるだろう。

 ‥試合には勝ってなんぼ、だが、攻守分離の守備としては暇すぎるのはお断り。
 結果としてそう言った流れが生ずることになろうか。


> そもそもの攻守分離の目的にしたって、多くの出場枠を確保することなのだから。


 一方で、守りに特化した体制を作り出すわけわけだから、
 打つ側にもヒットが出にくくなる厳しさが伴ってくる。

 すると、

 外野の守備を二人に減らして、ヒットが出やすい状況を演出しようなんて意見も出るかも知れない。
 そうならば、守備シフトをどうするかで、監督の采配も見逃せない展開が生ずることになる。
 ‥また、やたらと走り回ることになるだろう外野手に対して、交代要員を当てる必要にもなろうか。

 こうすると、

 守備が8人になるなら、攻撃の数も8人にすべきとなる。
 攻撃を8人で回すとなると、一試合に巡ってくる打席の数も増えることになる。
 守備側が、バッテリーごとの交代を容易にできるようなら、
 打者としても、数を回せない様では公平とは言えないからだ。

 その代わり、攻撃側は、攻守分離から守備をしなくて良いだけに、
 やたらと代打交代を繰り返すのもどうかという話になるだろう。
 そこで、一試合に交代できる打者の数に制限を課したり、
 特定打順だけの連続した交代を不可にするなどの措置が求められるだろうか。

 結果として、交代させる機会を多く演出することができ、

 高校野球で言えば、多くの選手に出場の機会を与えることができる様になるだろうか‥



1-4)3

 ところがである。

 この攻守分離の解釈も行きすぎれば、練習場の面積を二倍必要とすることになる。
 それこそ選抜された打撃特待者には、打撃だけの練習場が求められ、
 チームから分離して練習に取り組むなんて光景だって生じかねないのだ。

 当然、そんなことになろうなら、
 落合博満のような個性派で、わがままなタイプがぞろぞろと現れることにだってなるだろう。
 ‥教える方もさぞや骨が折れるようになるだろうな。

 それでも、そんな存在がチームのリーダーとして引っ張っていく様なら、
 明らかに逸材と言えるだろう。そういうわかりやすさの白黒ははっきり出ることになるだろうか。


> それでも、指導する方は困惑するだろう。


 勝つためにとばかりに、始めから攻守の志望をキッチリ分けてしまえば、
 それこそ、野球の持ち味であるチームプレーを学ばせることにはならないのだから‥

 攻めと守りで二つの派閥、二つのチームがあるようでは、
 とてもとても、試合の敗因の責任の擦り付け合いにだって成りかねないではないか。

 そういう意味では、攻守分離なんてしない方が良いに決まっている。
 今までの方が、ずっとチームとしての一体感も、
 プレーに対する一体感も共有できる仕組みだってことだ。


 このように、野球のルール一つとっても、
 スポーツとしての目的をどこに置くかで、求められるルール上の必要も変わってくるのである。
 ‥ならば私たちの経済競争だって同じことだ。

 単純に規制を緩和する以前の段階で、
 求められるべき心構えの指南までを含めて説明すべき事だ。
 ‥単に「個人的な努力が求められます」だけでは、お粗末すぎるのだ。



1-4)4

> しかし、これを商売の都合だけで言うとこうなる。


 出場選手が多くなると、その分だけ旅館運営は明るくなる。

 バッティング専門の練習場にしたって、
 地域のバッティングセンターがフル稼働。その上、地域の打撃選手の顔合わせの場ともなれば、
 バッティングセンターだって、高性能な変化球対応型をフル配備なんてことにだってなるだろう。
 それはそれで、地域交流の場としての演出にだってなるのかも知れない‥

 少年から年配まで、兎に角、センターで打てる人は一目置かれることになるはずだ。
 ‥その手の人間関係の構築には欠かせない仕組みに成り得るぐらいの可能性は出てくることになる。


> というのが、日常のお題目といったところか‥


 しかしどう考えたって、今更ながらに、昭和ほどのブームになるとは思えない。

 そもそもにして、活躍の場は何も野球で無くても好い。
 肩が強いと言うだけで、外野手一本に限定してしまうような選択肢の意味が不明だ。

 それが仮に野球が好きだからにせよ、野球の面白さはどう考えたって、
 みんなで守って攻めてを順繰りに繰り返す感覚から身につく何かなんだろうし、
 私たち世代からすれば、攻守分離の先に何が待っているかなんて予想なんてできないのだ。

 ‥そうだ。

 野球一つにしたって、ルール変更の末の先がどうなるかなんて誰にも言いきれないのだ。
 面白くなるならそれでいいとか、やってみなければ分からないとの意見はあるだろう。
 しかし、特化的に変更がされると言うことは、
 それに伴って生ずる変化に、私たちも付いて行かざるを得ない次第を余儀なくさせるのだ。


> 時代が、私たちに得意な事のみに特化するように要求してきた結果、


 私たちは明らかに弱くなったと言えるだろう。
 攻守分離の例えは、まさにそのままを言い表していると言える。
 (‥歴史的に言えば兵農分離だ)

 仮に、特化(攻守分離)が野球を面白くするだろうと予想しても、人間が面白くなるとは言いきれまい。
 それが実際の所だ。
 経済が多少良くなったように見えたとしても、人間や人生が面白くなったとは言いきれまい‥
 その確率の方が断然に高かったではないのか‥それが歴史に刻まれた格差スパイラルの実際だ。


 「どうして‥打てるというだけで特別視される必要があるだろうか?」
 「どうして‥その者が公平な秩序をもたらしてくれるという保証があるだろうか?」
 「彼の者は、打てると言うだけでしかない。それが特化の特性だ。」

 ‥そこを補ってきたのは、共に同じ何かをしているという共有(仲間意識)だった。
 それを無くしてしまう論理は、格差(他人行儀)しかもたらさない‥そう言えるだろう。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 20:26 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする
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