2014年11月10日

【命題】一体感や共有感にも質がある

1-3)記稿.2014/11/10

 例えば、生きるための共同作業とルーチンな共同作業では、
 明らかに一体感なり共有感に差が出よう。

 ‥だからといって、上か下かで解釈してもらっては困る。


 生きるための作業は基本であるとしても、
 実際の所、つまらないという見方の方が大半だ。(一次産業の衰退はまさにそこを象徴している)
 ルーチンな作業にしても同じことだが、生きるための作業とのつまらなさとはまるで異なっている。

 ‥まぁ簡単に言えば、
 よそ見をしていてもある程度修正の余地があるのと無いのとでの緊張感の維持の差である。
 それに耐えられるかどうかと言う処で、意味合いがまったく異なっている。
 ゆとりを保てると言うことは、それだけ、息抜きに何らかの時間を得られるということだ。
 それが有ると無いとの差はとても大きいのだ。


> これを怠惰性や役得としてだけで考えていると、一体感や共有感の進歩は得られない。
> いつでも臨機応変に、共有すべき質の切り替えができるという人間の方が非常に希だ。


 ※‥睡眠中の夢の中なんて、いくらでも臨機応変に思い込んじまえるのにな。
 辻褄なんてあっても無くても、無駄にそこにある空気を信じ込んでいる。
 覚醒時にそんなことは有り得ないにも関わらず、夢の中では誰もが臨機応変の変態と化するのだ。
 でも、目が覚めると途端に、あれ嫌だこれ嫌だの馬鹿の空気を纏って生きるのだ。



1-3)1

> そもそもにして、時間にゆとりが得られると、好き勝手なことを始めるのが人間である。


 生きる上での一体感よりも、
 ゆとりから得られる共有の中に一体感を感じることの方が圧倒的だ。

 昔ながらの伝承、昔ながらのカードゲームの類い、
 昔ながらの遊戯、近代的なスポーツ、
 読み物等の情報雑誌に小説、娯楽映像、
 そして、テレビにテレビゲームなどなど‥

 ‥それぞれを見比べても、得られる一体感には不思議と差が生じている。


 特に、生死の懸かった出来事を共有すると、どこか特殊な感情が芽生えやすい。
 その手のドラマを見ていても、その違いは明らかであろう。
 ‥しかし、ゆとりある生活に放り込むと、そこにあった特殊な感情が必ずしも優先されるとは限らない。
 運命を賭けた彷徨いや流離いを共にしたとしても、平和な日常に突入すると途端に道を違えるのだ。

 それはもう‥誰かに止められるなんて次第ではない。
 (恋愛でそこに差が生じるなんてようでは、まだまだである。まぁどうにもならないけどね。)


 ならば、社会的な共有としての日常の様々な文化色にしたって、それぞれに違いが紛れて当然だ。
 「俺流、なんとか流」といった風に、その辺にごろごろしているまんまである。


> そこにあるのは、自分が何をしたいかであって、
> 何を共感したいかという次第にはなっていないのだ。


 まさに、歩いたところが道になるの理屈である。

 アレな道を歩きたいからとか、アレな共感の的に成りたいと言うのとは少し違っている。
 歩いた道に共感が生ずるのであって、共感を得るために歩くわけではない。


 ‥共感を得るために歩こうとすると、
 それはそのまま、生きるために歩くというだけに成りかねない。だから苦しい。


 基本、人間にとって、生きるための一体感は必要に迫られないとなかなかにまとまらないものだ。

 だから、一体感が欲しければ、同じ必要に迫られた同士で行う必要がある。
 それ以外の関係や外野からの共感は、共有意識の範疇でしかあれない。


> 外野からの共感が、共存共栄の村造りの様な感覚にまで到ることはない。


 ‥言うなら、外からよく訪れる側としての立ち位置との違いである。
 外からの繋がりと、内同士に求められる繋がりはまったく違うものである。
 それでいて、両方無いと繋がっているとは感じられない。そういうことだ。

 (一次産業の衰退は、外との繋がりに乾いていたという事に過ぎない)
 (今の時代は、内との繋がりに乾いている時代に偏ったに過ぎない)
 (‥どちらにもバランスすることが大事だ。一方だけに偏ると碌な社会現象に成らない)



1-3)2

> ‥しかし、お互いに‥自分が何をしたいかの目的意識だけを鮮明にしても


 歩いて行く方向に、人が居なかったり、跡を辿る者が居なかったりすると、
 どう考えたって、一体感も共有感もほとほと長続きするものでない。

 物質的な言い方をすれば、重力に影響を受けるし
 心理的な言い方をすれば、ポジネガに影響を受けるのだ。
 ‥すべてをエネルギーとして見れば、自然と集まる流れとそうでない流れとがある。


 それぞれに性質の違いというのがあるがゆえに、
 得られる一体感や共有感にしてもパッとしないのが当たり前という状況だってある。
 それが良いという場合もあるし、それは嫌だという場合もある。
 そこにある細かな違いこそ、自分が何をしたいかの琴線と言える。

 あからさまに目立ちたいにしろ、目立ちたくないけど目立ちたいにしろ

 能力が伴っているからできるだろうとか、それで食っていけるとか、
 そういうことではない。


> 自分が本当にしたいと思っている感覚には、
> 自分の感じたい感覚がそこにあると言うことだ。


 それこそが、自分を成り立たせる一体感としての方向性であり、
 ‥共有感を先に求めても、大した意味に成らない次第である。


 しかし多くの者は、共有感を先に求める傾向にある。


 そこには、単に生きやすさを求めただけの空気があるだけで、
 それが上とか下とかという訳では無いにしても、
 いつの間にか、自らを下にしか思えないとの錯覚に包み込むのがオチである。

 それは‥外に向かった比較、それしか成り行かない方向でしか見ていないからだ。


 自分の内側に従う姿には、しつこいぐらいに、外面なんてどうだって良い所があるのだ。
 ‥外面が気になる内は、どうしたって未熟でしかあれないのだ。
 (気にならなくなる程に、スッと入れるかどうかであって、注意が無いということではない)



1-3)3

 とどのつまり、人間社会という奴を、
 ただ単に努力という一点灯で白黒付けるばかりで居ようものなら、
 どうしたって、そのような達観した物の見方が許されるのは、極一部の存在だけにしか成らない。

 それで良いのかというと、そんなことはなかろうて。

 誰しもがそこを辿れる様にする上でも、工夫と改善はとことん吟味する必要がある。
 世間様(政治×経済×社会)に、そこの精神が宿っておらぬ様では、
 ‥どうしたって、上と下を彷徨わざるを得ないのである。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 04:16 | Comment(0) | 命題 | 更新情報をチェックする
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