2014年11月17日

【命題】日本的経営の問うたものとは‥

1-5)記稿.2014/11/17

 日本的経営と言っても、どこからどこまでを指しているかには語弊が付きまとうものである。
 そこにある言葉の使われ方にしても、
 グローバル企業の持ち出す資本主義に対しての比較でしかあれていない。

 利益の追求という意味合いにしてみれば、どちらも似たようなもので、
 大企業にありがちなトップダウン体質にさしたる違いなんてないであろう。
 ‥そう感じているのが一般的であろうか。


> ここでは、そこに示されるべき明らかな違いとやらを問うて行こう。



1-5)1

 そもそもにして、雇用やM&Aに見られる概念自体が公平ではないのだ。

 お得意先との交渉でさえ、自分たちの利益にならないことはお互いに請け負わないものだ。
 ‥それは、お互いにも何がしたいのかをはっきりさせずには、動かないという意味でもある。

 それにしても、

 お互い様の間柄である内ならまだしも、身内の間柄になると途端に上下の立場を押しつけるのだ。
 反対であるようでいて‥組織という奴は、じつは身内の間における立場争いの方が熾烈である。
 ‥押しつけるとの感覚よりは、序列ばかりを重んじてお互いが縛られていると言えることだ。
 そこにある空気が、どうしたって、雇用たる概念に歪みをもたらすことになる。


> では問おう。雇用とは、公平から見いだされた在り方だろうか?


 労働の対価として給与を得る。だからそのための契約を結ぶ。

 それが所謂、雇用される側がただ働きの憂き目に合わぬようにとした権利の保障に見えていよう。
 ‥しかしそれは同時に、とても不公平な関係をお互いに課してしまっている形でしかないのだ。


 なぜならそこには、
 仕事そのものが、共同体で働く形でしかないにも関わらず
 与える側と与えられる側とで二分してしまう姿が生ずることになるからだ。

 ‥売上からの分け前をどうするかを決めるだけの責任を担っているだけの側が
 いつの間にか、与えてやるという仮面を被ってしまうのだ。
 王政でもあるまいに‥民主主義であるのだろう、上も下もないはずだ。

 それでなくても、会社の活動は、すでに社会的な責任の立場に置かれている。
 そうだ、尚更に上も下もあるまい。


> なぜ、そこに見られる経営と雇用の二分化は未だに続いてあるのだろうか?


 その経営側にしても‥入れ子式で誰かに雇われている場合の方が多い。
 それが資本主義と言われる構図である。
 ‥資本主義の本質は、資本を持ち寄るという次第だけを対等とする点にある。


 「自らの労働力をどうして資本と言えないのだろうか?」


 そのようなことは、決してないはずだ。
 そこが、そもそもにして公平では無いということだ。



1-5)2

 労働を提供するにせよ、資金を提供するにせよ、
 共に社会的な生活創造を請け負っているとする中身は同じである。


> ただし、


 経営と雇用の違いには、持続してきた側のノウハウを無償で教えざるを得ないとの差がある。
 蓄積されてきたそこを、社員というこれからの関係と言うだけで、ただ同然で教えようというのだ。
 考え方一つでは、授業料の請求を求められても致し方有るまい内容にあろう。

 ‥それが所謂、「経験者のみ」などと言ったうんちくになろうか。

 そうでもなければ、まったくノウハウのない立場の者との公平を釣り合わせるには、
 経営側の意向に絶対服従と言わんばかりに従わざるを得ないのが信条、もとい理屈と言えようか。


> しかし、それはそれである。


 そうだからこその身内の中での序列が容認されるのだ。それ以上の押しつけは対等ではない。

 それでも、雇われる側が‥
 そこに保たれるべき社会的責任を背負う気も無いのに、
 契約された給与分だけをキッチリ請求できてしまえるというのは、どうだろうか‥


 そしてそれを裏返せば、

 同じように社会的責任を負うとした理解があるなら
 どうしたって、その意味においての立場の対等を約束し合うべきとなろう。
 ‥そこの志の一致の確認こそが、社員採用・会社選びに於ける第一段階である。
 (なにも成績が良いとか、体力や適性に自信が有るとか、そんなのは二の次である)


 ‥馬鹿の一つ覚えのように、適当に楽ができてそれなりに稼げる商売
 採用する方にしたって、それの得やすいというだけのおいしい人材を望むだけでしかないのなら
 そこから退場すべきことだ。
 (まずは、採用の側に、汗した後の自信と魅力が伝わるようでなくてどうしようというのか‥)

 ‥面接で落ちた、取引を断られたと嘆く以前の問題として
 志の一致と日々の姿勢が、その会社や経営に対して、自身に釣り合ったかどうかを問うべきことだ。



1-5)3

 一昔前の時代とて、まだまだ、科学は行き渡っていなかった。
 ‥まだまだ科学の振興で以て、栄えようとした話の前段階でしかなかったのだ。

 それゆえ‥ある程度のレベルまで培われた技術の活用を用いて何かをしようということではなかった。
 科学技術の探求を以て、そこから得られた発見を
 商売のネタにしようというのが産業革命より後の経済だった。
 それが資本経済の根っこだった。情報そのものが利益をもたらす時代だったのだ。


 しかし今の時代は違う。

 情報は、共有されるべき知識でしかあれず、それにお金を払うかどうかは、
 情報を発する側が、対価を支払う側に対して、
 どれだけ継続と責任を示せているかという情報の整理と文化貢献の役回りだとの次第に変貌している。


> そこに見られる雇用観として、もはや競争を前提とした創出は成り立たないといった事情がある。


 競争ゆえに、科学技術の探求の成果の秘匿を、ある程度容認してきた。
 しかし、競争を推奨するほどに環境は悪化し、もはやそのようなことは言っていられなくなったのだ。
 身勝手にも、すべてを最新のエコロジーに置き換えていかねば、間に合うまいとさえ言われている。
 その時にもなって尚、技術の秘匿性維持などあり得るわけがない。


 それでも百歩譲っても、それの大胆なオープン化は現実的ではない。


 ‥その証拠に、誰しもは、らくしてウハウハになることばかりに酷く吸い寄せられてしまうのだ。
 そんな地球的民度でしかないのに、ただで教えるだけと言うのでは‥それこそ、
 会社経営の方針に理解の乏しい社員にまで、経営権の裁量を任せようとしているようなものだ。

 そうだ。

 だからこそ、経営と雇用の間には、依然とした壁で隔たれていると言えるだろうか。



1-5)4

 ‥しかしそれでもお互い様だったのだ。
 なぜそのようにあれたのかと言えば、日本人の民度がそれを実現するに十分な許容にあったからだ。
 それと、経済環境もまたそれに準じた環境にあれていた。


> だからこそ、日本的経営の意味合いには


 お互い様だからこその人材の大事が共有され、そこに趣があった。
 もちろん、現実的にはすべてではない。上に立つ者の器量次第でしかなかった。
 そこを受け継ごうとしないのでは、どうしたって、日本的経営と名を冠する意味もまた乏しきこと。

 そもそもにして、公平の本質として

 「持続可能であれるのか?」を問う姿勢にこそ、すべてに公平が宿ると言えようか。
 ‥ここの判断が実に骨の折れるところだ。人としての器が求められる次第になっている。


> 例えば、文化と文化との交流を挙げてみよう。


 イスラム教の教えは絶対です譲れません。食事の在り方については従ってもらいます。
 「郷に入りては郷に従え」とは言うものの、国際交流という奴は、郷の外にもそれを持ち込むものだ。

 本人たちにしてみれば、それが当たり前でも、相手のそれを同等に受け入れるなんてことは無い。


 「どうしてそれで、公平の付き合いとやらを保てるだろうか?」


 ‥されど、そこからの付き合いしか認めていない文化圏ならしかたあるまい。
 そこからしか始まりようがないのだ。

 では、こちらもそれ相応の向き合いをして頂かねば困ることになるわけだが‥

 果たして、先方にその姿勢はうかがえるであろうか‥?
 「お互いに繁栄すれば好いですよね」と言った姿勢だけではとてもとても保てるものではない。


> 資本主義の口ぶりはいつもそこをはぐらかして、”Win win win”しか連呼しないのだ。


 それも自分の所ばかりが大文字になるようにである。
 ‥かようにも、誰しもは自分を譲ると言うことを好まない性質を帯びるのだ。

 だからこそ、

 譲り合えない者らは、お互い様の気持ちからの真価を得るに乏しい鏡似性を見せるばかりとなる。
 (‥まずは、一番に頭を垂れることができてこそ、稔りも付くことになると言うのに)



1-5)5

> 其を具体的に述べるなら


 「それ、私がやります」というだけのことだ。
 其の見返りとは、やり通しさせて頂けると言う次第だけである。
 ‥なればこそ、余計な縁も道筋も発生するわけもないとの流れにもなろうか。

 自ら創めぬ者に、付いていく者など誰も居ないという‥それだけの事実があるだけのこと。
 自らはじめずに、誰かの真似ばかりでは、どうしたってノウハウなど身につくところではない。
 (それこそ、仕事に使われている感覚しか得られないばかりだろう)

 ‥形から入るにせよ

 それは、形が有るという前提でしか出来かねないという次第であって
 とてもとても、ゼロからの出発に立ち向かえるかどうかと言う意味で問うなら怪しい限りだろう。


 ‥そこを自分の物にしたいと思わずに
 「お役に立って見せます」というのでは、勘違いも甚だしいと言うことだ。
 (給与の多いか少ないかしか見えておらぬ者に、創造など与えられようも無きことだ)

 それでも、そこを補って余り有る生き様と言えば、どう考えたって、

 馬鹿の一つ覚えを愚直にこなし続ける根気に外なるまい。
 ‥そこの出来ぬ者に、「私がやります」の適性なんぞ始めから無きに等しいのだから。


 それにしてもそこの適性の差をお互いに知るには、

 それこそ長い付き合いをして行かなねば、誰と誰の差なんぞ分かるものではないのだ。
 勝手に思い込んでいるだけでは、誰がどんなストレスに弱いかなんてわかりようもなく、
 サーポートの何たるやを慮ることも無きこと。


 ‥日本的経営、日本的経営と讃えてみたところで

 「そこまでの気の配りようが日本社会全体であったか?」と問えば、どうだろうか‥
 どうしたって、"Yes" などと言えたものではないのだ。
 ‥それでどうしてお互い様が貫けるというのだろうか。まだまだ先は長いのだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 04:37 | Comment(0) | 命題 | 更新情報をチェックする
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