2014年11月25日

【命題】商売とは何か?

1-5)記稿.2014/11/25

 「‥商売とは何か?」を人が問う時
 のし上がるための手段としてのみ考えるばかりなら
 何を以て、もっとも効率的に事が成し得るかを考えることになるだろう。


> ‥その時の一番確実な視点は


 実物経済以上の経済を、脳内で勝手に妄想しても、実体に繋がらないという次第である。
 まずは、自らが経済のパイを拡大できなくては誰も興味を示すことは無い。
 それこそ、その妄想の実現は、実行者次第に依存する。

 ‥だから、商売とは何かを考えた時

 表面的には、”売って下さい→買って下さい”を愚直に繰り返すだけの有り様にしか映らない。
 それは実に骨の折れる仕事である。だからこそ‥
 ‥商売敵を増やしたくないのなら、他者に商売を勧めることはしないのが常識だった。
 勧めるならそれこそ、日雇い労働の中身からであって、経営のノウハウからなんかでは無かった。


 ※ 自立経営を勧めたことでその相手が失敗したなら、恨まれることにもなろう。
 相手がそうは思わずとも胸の晴れるところでは無い。お互いの関係はそれまでとなってしまうものだ。
 ‥騙したわけでもなく、騙されたわけではないにせよ
 相手からしてみれば、失敗したという事実に引け目を抱き、
 援助を求めたくても恥ずかしい限りでもあるからだ。
 一方で、失敗した当人から切り出さない限り、易きに助ける訳にもいかないのが実際としてある。

 ‥其を嫌えば、家族経営・親戚経営が日常の許し合えるだろうとの想定にあった。
 今の時代は、民主社会ということで、法制度に示されたうんちくを当てにしすぎている。


> どちらでも、上手く行くかどうかなんて、所詮とんとんだ。


 日雇い労働と経営と‥どちらにリターンが大きくあるかを問うなら、経営である。

 ‥言うまでもないが、皆で競争しようとすれば、当然としてリスクも大きくなる。
 如何にも、皆で競争することでパイの拡大に拍車が掛かるとの印象もあるわけだが、
 その実態についても言うまでもない。

 牛耳る者が居れば、それ以上に大きくなんて成らないものだ。
 むしろ、牛耳る者の器で一定の規模が安定しているなら、その規模を良しと見るべきである。
 (‥其が嫌なら、自ら背負うべし)



1-5)1

 ‥商売の基本として、”売って下さい→買って下さい”がある。
 右から左への移動を確実にするためにも、物流を把握することは欠かせないことだ。
 だから、その物流のノウハウを他人に明け渡すことは、成長の停滞を意味する。


> 自分に必要なルートは自分で開拓すべきである。


 しかしながら、ルートには、先人の軌跡がすでに引かれているものだ。
 先人のルートがどうしてそこにあるかは別にしても、早々簡単に退いてくれる所ではない。

 ただでさえ、ルートを維持するには小まめなケアが欠かせないものだ。
 自ずと持続可能とするためにも、先立つ物が求められるばかりである。
 ‥其はお金ばかりではない。実物経済の方こそ重要だ。

 実物経済を担わざる者に、持続など不可能。
 実物経済の対象の変化こそが市場の変化であり、先人とてそこをとやかく言える立場にはない。


> 商売に公平があるとすれば、そこだけだ。


 だからこそ、同じ物で勝負をしようとすると”戦争(勝者の君臨)”にしかならない。

 「‥それいけ便乗」では、どうしたって好景気と不景気を繰り返すことにしかならないのだ。
 それゆえ、上に立つ者は、過去形的な発想に”NO”しか言うまい。
 かの者が勉強しているかどうかは、どれだけの過去形を理解しているかでもある。


> ‥格差の固定とは、世間的な過去形を知らない格差でもある。


 ただし、実物経済を受け継いだだけの輩は、

 実物経済のノウハウを理解する頭に乏しい。
 膨大な過去形のノウハウを前にしても、新しいことにしか興味がない。
 ‥新しければ、すべてが上手く行くとの錯覚に満ちている。

 ルートが如何様に変化しようとも、実物経済としての基本は何も変わらないのだ。

 それこそが、”現場を知らずして成り行かず”の次第である。



1-5)2

 売上を伸ばそうと思って、効率を考え始めると、
 途端に現場の声を訊かなくなる。万物の声を聞こうとしなくなる。
 ‥グローバル経済は、とくにそれである。

 効率を求めることで、必要な物流も整理されていて当然と考えるばかりに陥る。
 すべてがそうだ。その結果として物価が安くなるのだ。
 ”中間マージンが不用”とは、とどのつまり雇用の縮小である。

 市場の肝となるポジションは、整理され、
 市場の末端で自由化を声高に叫んでいるのが実態である。
 ‥結果として、規制緩和しても多くの者があぶれるばかりだ。価格も下落を続けることになる。


> 自らルートを開拓しない者の末路がそこに生ずるのだ。


 お互いにルートを開発しようとすると、敵同士の関係が多くなりギスギスしがちである。
 ‥しかしである。だからこそ競争すべきは、量ではなく質であるべきことに趣が置かれるのだ。

 その質も、ルートを牛耳っている側が、押せ押せで価格攻勢を仕掛けると、誰も見ようとしなくなる。
 得たければそれこそ、自分でルートを見つけて買い続ける必要となろうか。

 ‥そこにあるべき形は、もはや消費ではない、生産との一体である。
 それこそ、身内経営とさして変わるところがない。
 現場の声を訊くとは、そういう次第から始まるのだ。



1-5)3

 ところが、そこにあるノウハウを理解し始めると、
 規模の拡大に乗り出そうとする輩が、必ず登場することになる。
 効率化こそサービスと言わんばかりのそれは、常に同じ文句を垂れている。


> お互いにもっと儲かりましょう。
> お互いにのし上がりましょう。
> もっと良い暮らしがしてみたいとは思いませんか?


 ‥一角の成功者が、その甘言に乗るのも乗せるのも、商売の一抹ではあるにせよ
 ”売って下さい→買って下さい”を、一本気で渡り歩いてきた強者ほど
 その手の引き寄せ能力が強いがゆえに、人生の諸処所々で対峙する場面でもある。

 その気が無くとも、安易に効率だけを絶対視していると足元を掬われることになる。
 (‥ドツボに嵌まろうものなら、そんなのはもはや商売では無い”戦争”だ)


 ※‥社会的に大きく飛躍する運命の者は、元から引き寄せ能力も強いため
 始めから、野心の草刈りをさせられるばかりの足取りを歩むことになる。
 そうしておかないと、自己崩壊しかねないからだ。
 ‥それは、「お前は、この時代に、戦争を仕掛けに来たのでは無い」と言わんばかりにである。

 それでも足元を踏み外したなら、もはやどうしようもあるまい。
 駆逐してもらうしかなかろう‥それも商売だ。



1-5)4

 商売が商売としての規範を保っていくためにも、
 「一に奉公、二に奉公、三四がなくて、五に奉仕である。」
 ‥それ以外の解釈など、有り様が無いのだ。


> では、その奉公・奉仕とは何か?


 奉公・奉仕を突き詰めていくと、結局は、自分を社会にどう役立てたいかという次第しかない。

 ‥それは、必ずしも儲けることの主体を意味しないのだ。
 経済のパイの大きい次第が何も素晴らしい由ではない意味を放つばかりだろう。
 もちろん、そうすることが社会の貢献に繋がる時代も有り得ることだ。

 しかしである。

 それにしたって、右から安く買ってきて、左に高く売るという商売の表面上の基本であるそれは、
 商売の心得として何の足しにもなっていないという回答を孕むのだ。
 ‥むしろ、そこが本懐であろうか。


 そこを何ら考えずに、
 「売れればさえ儲かれるのに‥」と、しか考えていない者は、
 喧嘩をしでかさんとの空気を、まわりに醸し出しているだけとの次第になろうか。

 ‥なにぶんにも、自由だから。
 間違った自由もある次第を、問う姿勢が無いのなら尚更である。

 だからだろう。甘い言葉に弱くケロッと騙される成り行きを一度や二度味わうことになるのだ。
 (‥自分から甘い言葉を投げかけることしか頭にないのも同じである)
 で、騙された方も騙した方も、それを商売とは言わずに”詐欺”と称するのである。



1-5)5

 「商売とは何か?」
 其は真心であるとはよく言われる次第にあるが‥

 ‥喧嘩腰にしかなれないド阿呆にまで
 商売を一律に勧めてしまっているシステムは、危険思想でしかない。
 また逆に、腰の低い者ばかりを選んで集めても、売上なんか上がるわけが無いのだ。
 人付き合いが苦手とあれば、尚更である。

 そこの配分を度外視した、平和主義・能力主義・成果主義の人選は、
 ”戦争(非常時)”の駒としても使えないお粗末な組織構造しか描かぬものである。


> 勝ち抜かなくてはならないのも商売‥
> どのような商品とて上手に捌くも商売‥


 人を使えるように育てる、
 世間の横の関係を使い切るのも商売人としての器量である。
 ‥そこを欠いた一体で無きそれを、真心と言えるわけがないのだ。


 良いものだけを置いて良い客だけに売りたい‥
 逆に言えば、良いものだけを買いたいである‥

 それは当然な希望だが‥まぁ其も、ただの自己満足の範疇である。

 (良いものしか知らないでいても、誰もそれ以上を学べなくなるし、活かせなくもなろうか‥)
 (実態を知ろうとしない姿勢は、すべからく身の破滅にしか繋がるまい)

 ‥されど、それしか求めていないのなら無理せず、
 自己満足でしかない自分を自覚して、徹底的に其にこだわるのも筋である。
 徹底している内に、何が身につくかなんてお互いに誰にも分からないのだから。

 お互いに妥協するばかりでは、その程度の社会にしかならないのは火を見るまでもなきこと‥
posted by 木田舎滝ゆる里 at 04:46 | Comment(0) | 命題 | 更新情報をチェックする
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